「みじめな人間を救う神」 ローマ 7:7-25
「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。こうして、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」(ローマ7:24ー25)
1、律法によって、罪の悪質さが暴露される(7−13節)
律法を行うことによっては義認も聖化もないならば、律法は罪なのかと反論されました(7節)。そこでパウロは、律法の役割は、罪の悪質さを暴露するためと説明しました。
⑴律法によって知らされた欲望を行う罪(8節)。悪いと知らされたのに、止めるのではなく、行ってしまう。
⑵神からの律法は、聖なるもの、正しいもの、良いものであるとわかっているのに、それを行うことができない罪(12・13節)。
⑶律法によって「限りなく罪深い」(罪の悪質さ)が明らかにされた(13節)。
「そのさばきとは、光が世に来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したことである。」(ヨハネ3:19)。
罪とは、光に照らされたのに、闇に向かってしまうこと。照らされる前は、ぼんやりしていた。明らかにされた後で、むしろやってしまう。
2、律法を行うことによって、聖化されようとする「みじめさ」(14−23節)
「私たちは、律法が霊的な者であることを知っています」とは、律法によって罪の悪質さを知らされた後、どのように聖化されていくのでしょうか。(聖化とは、罪を常習とせず、神に喜ばれる生き方をすること)。
結論から言うと、この箇所(7−23節)は、主イエス・キリスト、聖霊は一言も書かれていません。つまり、自分のうちにある力と努力によって聖化されようとすることです。
⑴ 神の律法を無視せず、同意し、良いものと認めています(16節)。
⑵「肉的な者」「罪の下にある者」(14節)で、罪の支配に抵抗できない者です。
⑶ 罪の支配を願っているわけでもなく、むしろ、憎んでいます(15節)。罪を許容せず聖化を願っています。
⑷ 聖化を願っているにもかかわらず、実行できません(18節)。
⑸ 私の「心」には聖化されようとする思いがあるのに、私の「からだ」には、「罪の律法」が支配して、自己分裂状態です(23節)。
以上の結論が、「みじめな人間」で、「死のからだ」を持つ苦悩です。(注:パウロが最も言いたいことは、罪の哲学的自己洞察や心理分析をすることではなく、「律法を行い」「自分の力」で、聖化されようとすると、このような自己絶望になってしまうことです。)
3、律法を行うことではなく、主イエス・キリストによって聖化される(24節)
「神に感謝します」とは、人間には絶対にできないので、神からの恵みに、ただ、感謝しかないのです。それが、「主イエス・キリストを通して」の聖化の信仰生活です。
「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」(ヨハネ15:5)。