「キリストの死と復活につながる」 ローマ 6:1-5
「私たちがキリストの死と同じようになって、キリストと一つになっているなら、キリストの復活とも同じようになるからです」。 ローマ6:5
1、罪に対して死んだ私たち(2節)
信仰義認の恵みによって救われたクリスチャンの中に、「恵みが増し加わるために、私たちは罪にとどまるべき」(1節)と、罪を犯すことを肯定する人たちがいました。「罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれました」(5:20b)を逆手にとり、「クリスチャンが罪を犯しても、恵みがあるので、どんなに罪を犯しても平気、何も問題はない」という屁理屈です。
反論は「決してそんなことはありません」(2節)。絶対にないと断固否定しています。
「私たち(信仰義認の恵みの中に生きているクリスチャン)は罪にとどまるべきでしょうか」(1節)、「私たちがどうしてなおも罪のうちに生きていられるでしょうか」と、それはできないと反論しています。救われる以前の罪と死の支配に、逆戻りしたいのか?と言っています。
現実の社会では、愚かにも罪を犯してしまうことがあるでしょう。しかし、信仰義認の恵みに固く立たないで、罪を常習的に犯し続けて平気だという生き方ではないのです。
信仰義認の恵みの中に生きるクリスチャンは、「罪に対して死んだ」のです。一度、死んだ者はそのまま死人であり続ける」(不定過去文)という意味です。
「私たち」が信仰義認の恵みの境界線を行ったり来たりしたり、罪に対して、ある時には死んで、ある時には生きてと、ウロチョロとさまよってはならないのです。
2、キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たち(3節)
「あなたがたは知らないのですか」(3節)と、主イエスを救い主と信仰告白しバプテスマ受けたを私たちに再確認しています。そのバプテスマの意味は、キリストに、しっかりと永続的につながることです。
「ぶどうの木の接木」の例え話で、主イエスと主イエスを信じる者との関係を語っています。「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません」(ヨハネ15:4)。
3、私たちがキリストの死と復活につながる
⑴私たちがキリストの死とつながると信じる
「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです」(5節)。神は、キリストの十字架の死と罪人の私の死を重ねて、罪の裁きを成して下さったと信じることです。自分で罪深い自分を殺すことではなく、キリストの十字架の死の事実によって、罪人の自分も「死んでしまっている」と信じることです。
⑵私たちがキリストの復活とつながると信じる
「ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです」(4節b)。キリストの十字架の死と同じように、キリストの復活の事実を信じて、自分もキリストの復活につながっていると信じることです。
そして、日々、「新しいいのち」(キリストのいのち)に生かされて、現実の生活を歩み続けることです。