2025.5.18メッセージ内容

「再臨の主を迎える」 マタイ25:1-13

「目をさましていなさい。その日、その時をあなたがたは知らないのですから。」(マタイ25:13)

1、主イエス・キリストの再臨

再臨とは、世の終わりに、主イエス・キリストが再びこの世に来られ、信者を迎え、永遠の神の国が完成することです(マタイ24:30−31、ヨハネ14:3、Iテサロニケ4:14−18)。「御国を来らせたまえ」(主の祈り)と祈り、「かしこより来たりて生ける者と死にたる者とをさばきたまわん」(使徒信条)と告白しています。

私たちの罪のために十字架で死に、よみがえり、天でとりなしてくださっている主イエス・キリストが、世の終わりに私たちを迎えに来てくださるのです。生涯の最後に、真心から愛し、信頼し続け、苦難の中に従ってきた主イエス・キリストと、顔と顔を合わせて、お会いするのです(Ⅰコリント13:12)。主イエス・キリストの再臨は、自分自身と被造世界の最終ゴールなのです。そのゴールをめざして、私たちは日々の信仰生活を歩み続けているのです。

2、花婿を迎える賢い娘と愚かな娘

祝宴(結婚式)の前に、花婿が花嫁の家に迎えに来て、両人が花婿の家に到着し、結婚式が始まります。花嫁の友人の「十人の娘」は、花嫁と一緒に花婿を待っていて、祝宴に参加します。

花婿が迎えの迎えが遅くなり、十人の娘は皆、寝込んでしまいます(5節)。花婿が迎えに来た時に、「賢い娘」はともしびと共に油を持っていましたが、「愚かな娘」はともしびは持っていましたが、油を持っていませんでした(3節)。足りなかったので、分けてもらえず、油を買いに行くしかありません(9−10節)。結婚式が始まり、戸が閉ざされていて、祝宴に入ることができなかったのです(10節)。

3、再臨信仰を持っていること

「賢い娘」と「愚かな娘」の違いは、「油」の有無です。それは、再臨信仰を指しています。

「賢い娘」が油を用意できたということは、「愚かな娘」も、当時の習慣は知っていたはずですし、用意できたはずです。私たちもすでに聞き、信じている福音をしっかりと受け止め、安易に流されてしまわないことです。

油は貸し借りはできないとは、信仰とは一人びとりの信仰です。生まれる時、人生の決断の時、死ぬ時、そして、主の御前に立つ時も、厳粛なことですが、一人です。神と私との関係が大切なのです。そこがいい加減になると、「安易に他人に依存する信仰」になってしまいます。

再臨の「時」は、父なる神のご計画であり、人は知ることはできません(マタイ24:36)。しかし、その時が近づいていることは、主イエスの言葉や聖書の預言で知ることはできます(マタイ24:32)。主イエス・キリストの再臨は、興味半分や恐怖心の信仰ではありません。「目を覚ましていなさい」とは、主イエス・キリストの再臨を待ち望みつつ、主に与えられた生涯を、主の御前で忠実に歩むことです。

「平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれていますように。あなたがたを召された方は真実ですから、そのようにしてくださいます」(Iテサロニケ人5:23−24)。

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