「神の国への招き」 マタイ22:1-14
「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1・15)
今日の聖書箇所では、神の国(天国)ヘの招きが、王子の結婚の披露宴にたとえられています。
1、王子の披露宴のたとえ
王が息子の王子のために結婚の披露宴を催します。王は事前に招待していた客を呼ぶために、2度もしもべたちを遣わしましたが、招待客たちは王の招きを無視して、目先のことや自分のことを優先しました。それどころか、しもべを捕まえて、殺してしまったのです。王は怒って軍隊を送リ、その人たちを滅ぼし、町を焼き払いました。
それから王は、しもべたちに、大通りに行って出会った人を皆招くように命じました。しもべたちが、出会った人をみな集めたので、会場はいっぱいになりました。
王が客の様子を見ようと入ってくると、なんとそこに、婚礼の礼服を着ていない人が一人いました。王がその人に理由を尋ねても、黙ったままです。王は失礼なその男を外に放り出すよう命じました。
2、たとえの意味
このたとえの王は「父なる神様」、息子は「イエス様」、披露宴は「神の国」を表しています。王が何度もしもべを遣わしたように、神様も一人でも多くの人が神の国に来てほしいと願っておられます。あらかじめ招待されていながら自分の用事を優先して断わった人たちは、ユダヤ人をさしています。さらに、しもべたちを殺してしまったとありますが、実際に、かつての預言者たちや主の弟子たちが神の言葉を伝えても聞き入れず、殺した事実が聖書に記されています。
そこで、王は大通りに出て行って、出会った人をみな披露宴に招きなさいと命じました。それは、神の救いが異邦人に拡がったことを表しています。異邦人は神の救いには与れないと思われていた人々です。しかし、神の一方的な恵みによって、神の国に招かれたのです。
大通りから集められた人たちは、婚礼にふさわしい礼服を王から与えられたと考えられます。ところが、着替えなかった人がいたのです。これは、王に対する反逆を表しています。せっかく、用意されている礼服を着ないということは、イエス様が私たちの身代わりに十字架にかかって罪をきよめてくださったのに、信じないことと同じです。罪に汚れた心のままでは神の国に入ることはできません。
3、神の国に入るには?
イエス様が十字架にかかって身代わりに死んでくださったことによって、救いの道はすべての人に開かれています。ところが、自分のことを優先したり、神の言葉を無視したり、悔い改めない人は、神の国にふさわしくありません。神の国に入るためには、自分の罪を悔い改めて、イエス様の十字架と復活を信じるだけでいいのです。「あなた方は、古い人をその行いとともに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです」(コロサイ3・9-10)とあるとおりです。
神様は、ありのままのあなたを招いてくださっています。よい行いの重ね着をしたり、自分の努力や頑張りによってきれいに着飾らなくてもいいのです。悔い改めて、福音を信じることが必要です。「悔い改め」とは、方向を変えるという意味です。これまで自分中心だった生き方を、神様中心に方向転換するということです。
今日、神様の招きに素直に応じて、祝福に与る者とさせていただきましょう。