「十字架上の主の祈り」 ルカ23:32-43
「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」(34節)
本日は、受難週礼拝です。イエス様の十字架の意味を考えましょう。
1、とりなしの祈りをなさったイエス様
イエス様は何度も鞭で打たれたあと、自分がかかる木の柱を背負わされて「どくろ」と呼ばれている場所まで歩かされ、そこで十字架につけられました。イエス様は苦しみの中で、自分を十字架につけた人々のために祈られました。ねたみのために死刑に追い込んだ祭司たち、裁判でうその証言をした者、罪がないと分かっていながら死刑に決めたローマ総督ピラト、十字架につけるよう大声で要求した群衆、イエス様を鞭うって釘づけにしたローマ兵たち、周囲で嘲りながら見ている人々・・・、そのような人々のためにとりなしの祈りをなさったのです。
自分をひどいめにあわせた人を、そう簡単にはゆるせないはずです。しかし、主は「彼らは何をしているのかが分かっていない」と、罪人を擁護してくださっています。 罪を罪とも思わない、罪が何かも分からない、そのような人々のために、今も主は「お赦しください」と、とりなしの祈りをしてくださっています。
2、天国に導いてくださるイエス様
十字架につけられたイエス様を真ん中にして、右と左にふたりの犯罪人も処刑されていました。ひとりはイエス様を罵り、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と言いました。しかし、もうひとりはそれをたしなめて、「おれたちは自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない」と言ったのです。イエス様をキリストと認め、自分の罪を悔い改めているようです。だからこそ、「あなたが御国に入られるときには、わたしを思い出してください」と願ったのです。「こんな罪人が天国に入るのは無理だろうなぁ、せめて自分のことを思い出してもらえたら・・・」そんな謙遜な思いがにじんでいます。これから善行に励む事もできません。でもイエス様を信じて心を変えることは、いつでもできるのです。死を目前にした犯罪人にとって、「今日、わたしとともにパラダイスにいます」というイエス様の約束は、どんなにうれしかったことでしょう。
3、救いを完成されたイエス様
イエス様は、死を目前にして、ご自分を父なる神にゆだねておられます。愛の神は、罪人を救うために、ご自分の独り子を人間としてこの世に送り、犠牲にされたのです。イエス様の使命は、父なる神のご計画によって、わたしたちの罪の身代わりになることでした。罪のないお方しか、人間の罪の身代わりはできません。人となられたイエス様が十字架にかかって死ぬことによって、一度にして完全な、永遠の救いの道を開いてくださいました。
肉体の極限の痛みや、罪人として父なる神から裁かれる苦しみ、親密な父と子の交わりを一時的にでも絶たれるつらさは、私たちの想像を絶するものだったでしょう。主は苦しみを耐え抜かれて、私たちの救いをなし遂げてくださいました。このような主の苦しみによって、救いの道は開かれました。私たちはただ、イエス様の十字架が「私の」罪のためと信じるだけで罪が赦され、永遠の命をいただけるのです。神の愛に感謝して、イエス様の十字架を仰ぎましょう。