「信仰がならなくならように」 ルカ22:31-34、56-62
「しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」 (ルカ22:23)
「信仰がなくなる」なんてことがあるのでしょうか? 一番弟子とも言えるペテロは、3年半、主イエスと寝食を共にし、主イエスの言葉を聞き、数々の奇跡や癒しも見てきました。主イエスが「神」であると告白しました。そのペテロが、主イエスが十字架につく前日の大事な時に、三度「知らない」と否定してしまったのです。ペテロの信仰は破綻し、彼は号泣します(62)。
1、主イエスのとりなしの祈り
主イエスは 「シモン、シモン」(31a)と、名を呼び、優しく忠告します。「見なさい。サタンが‥」(31b)と、サタンからの試練があることを予告し忠告します。信仰者は神に守られていて、サタンに敗北することはありませんが、無防備であってはなりません(エペソ6:10−20)。
「しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました」(32)。私たちの信仰がなくならないのは、主イエスのとりなしの祈りがあるからです。ペテロの召命の時、主イエスと共に宣教の時、ゲツセマネでも、十字架上でも、主イエスの祈りがありました。今も、主イエスは、天で父なる神の右で、私たちのためにとりなしておられます(ヘブル4:14−16)。
「ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(32)。信仰が破綻してしまうならば、再度、やり直す意思や力は自分から出てきません。しかし、主イエスは、この時にペテロの信仰の回復の姿を予見しています。そして、同じように信仰の挫折してしまった者を支え励ます者となることを期待しているのです。
2、ペテロの信仰の破綻
主イエスの大切なこの言葉をペテロは聞き流し、「主よ。あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております」(33)と、自分の自負心、正義感、覚悟を述べています。自分の力でできると思ったのでしょう。また他の弟子との違いも見せたかったのでしょう。肉的な思いがむき出しです。主イエスは再度、「ペテロ、あなたに言っておきます。今日、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います」(34)と忠告しますが、ペテロは、「主よ、そうですか」と答えず、突き進んでいきます。
その結果、主イエスの予告のように、三度否認することになります(54-62)。ペテロは勇気を持って、大祭司の邸宅の庭に入ります。そこにいた女や二人の男から、主イエスの仲間だと言われ、3度否認します。2度目、3度目には、勇気を持って奮い立ち、「主イエスの仲間だ」と言えたのに、2度も、強く否定します。ペテロの信仰は、ガラガラと音を立てて崩壊し、破綻します。
3、ペテロは号泣し、信仰を回復
ペテロの否認の言葉が終わらないうちに、鶏が鳴き、大祭司の邸宅の戸が開き、主イエスが出てこられました。その時、「主は振り向いて、ペテロを見つめられた」(61)。主イエスの視線はペテロに向けられ、ペテロは主の目を見たのです。その目は、裁きの目ではなく、赦しと愛と期待の眼差しだったのです。ペテロの信仰は破綻したけれども、主の祈りの言葉を、ただ信じたのです。彼の涙は、絶望の涙ではなく、信仰の回復に向かう希望の涙です。主イエスの祈りと眼差しは、私たちに対しても同じです。