「神に委ねて生きる」 Iサムエル26:6-12
「悪に負けてはいけません。むしろ、善をもって悪に打ち勝ちなさい」。 (ローマ12:21節)
「ある人を赦すことができず、怒りが込み上げてくる」 と相談されました。事情をお聞きすると、 そう思うのも当然と思われ、助言ができませんでした。一つだけその方に「それでは、徹底的に憎んで復讐ができれば、晴々とした心になると思います?」とお聞きしましたところ、「もし復讐できたとしても、晴々とした心にはならないでしょう」とお答えになりました。本日の主題の「神に委ねて生きる」とは、人生全般のことですが、特に「復讐心」「怒り」「憎しみ」を「神に委ねる」ことを、聖書から考えてみましょう。
1、ダビデは復讐をしなかった
ダビデは、先代のサウル王の嫉妬心から憎まれ、命を狙われます。ダビデは命懸けで、サウルの追手から逃れていきます。サウルが洞窟にいた時、ダビデは殺害するチャンスがありましたが、サウルの上着の裾をそっと切っただけでした。洞窟を出た後に、その裾を証拠に、「私の主君に手を下すことはしない。あの方は主が油注がれた方だから」(Iサムエル24:10)とサウルに告げます。サウルは感激し、自分が悪かったと認めます(Iサムエル24:17−21)。 しかし、サウルは心変わりし、ダビデを執拗に追い続けます。
再度、サウルの殺害のチャンスが訪れます。サウルも部下も寝入っている時、ダビデの部下アビシャイは「神は今日、あなたの敵をあなたの手に渡されました。どうか私に、槍で一気に彼を地面に突き刺させてください。二度することはしません」(26:8)と進言します。しかし、ダビデはアビシャイに、「殺してはならない。主に油注がれた方に手を下して、だれが罰を免れるだろうか」(26:9)と殺害を止めます。そして、枕元にあった槍と水差し を持ち出し、殺害しなかった証拠としてサウルに見せたのです。この時もサウルは感激をして自分の間違いを認めますが、また、心に嫉妬心が戻ってしまいます。ダビデは、神に委ねて、復讐をしませんでした。
2、ローマ書の勧告(12:9-12 新P318)
ローマ書12章は、信仰者の健全な信仰生活の勧告です。総論として「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れないようにしなさい」(9)。その具体例として「愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。『復讐はわたしのもの。わたしが報復する。』主はそう言われます」(19)と勧めています。「悪に負けてはいけません。むしろ、善をもって悪に打ち勝ちなさい」(21)。
3、主イエスによって、祈りによって、
人を赦すことは、現実には、困難なことです。長期間、複雑な問題が絡んで、一筋縄では解決できないことがほとんどです。しかし、主による解決の糸口はあるのです。
⑴主イエス・キリストの十字架の赦し
「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」(ルカ23:34)と、主イエスのとりなしがあります。
⑵自他共に「復讐心」や「憎しみ」が増大する中で、「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します」と主の祈りを祈ります(マタイ6:12)。
⑶自他共に、赦す心が与えられ、現実にも和解の道が開かれるように、主の御心がなされるように、委ねることができます。