2025.3.9メッセージ内容

「選ばれたダビデ」 Ⅰサムエル16:6-13

サムエルは油の角を取り、兄弟たちの真ん中で彼に油を注いだ。(13節)

 イスラエルの最初の王はサウルでしたが、彼は主に聞き従うという最も大切な資質を持っていませんでした。そこでサムエルは次の王を求め、主のことばに従ってベツレヘムに住むエッサイの家を訪問します。そこで主が選ばれたのは、サムエルの考えとは違った人物でした。

一、容貌や体格ではない

長男エリアブは容貌も立派で背も高く、王となるにふさわしいとサムエルは思いました。でも主は、「彼を退けている」と仰せられます。そういえば、サウルも美しい若者で背も高い人でした(9:2)。次男や三男も不合格でした。7番目の息子たちまで紹介されましたが、主は誰に対しても「その人だ」と言われませんでした。人はうわべを見るが、主は心を見られるからです。

最近、「ルッキズム」ということばが聞かれるようになりました。「人は見た目が9割」という題名の本を見たこともあります。確かに、外見が良い人は多くの人々にもてはやされます。しかし主は、そのように人を見られません。主は「無に等しい者」をあえて選ばれるのです(Ⅰコリント1:28)。それは、だれも神の御前で誇ることがないためだと聖書は宣言します。自分を誇らないことこそ神の求められる生き方です。

二、年齢にもよらない

「子どもたちはこれで全部ですか」との問いに、父エッサイは羊の番をしていた末の子を呼び寄せました。彼はまだ10歳代だったので、「この子が選ばれるはずがない」と父は思っていたのでしょう。確かに年齢が若いために重要な働きができない場合もあります。しかし、神の選びは年齢によって左右されることはありません。年が若くても、高齢であっても、主の働きはできます。

若いことは経験が少ないことです。しかし、これから経験を通して学んでいくのです。それらを糧にして成長していくのです。大切なのは、主が選んでくださったなら、主が成長させて下さるとの信仰です。逆に高齢であっても、それまでの自分の経験に頼らず、常に主に信頼して歩もうとする態度が必要です。信仰の強弱は、年齢に左右されることはありません。

三、主の油注ぎによる

末の子のダビデは、「血色が良く、目が美しく、姿も立派」でした。外見も良かったのですが、主は見られたのは彼の「心」でした。それは肉眼では見えない、「神を受け入れる態度」です。ダビデにはそれがあったのです。そこで主はサムエルに「彼に油を注げ」と言われました。父や兄たちは、サムエルが教えていた預言者学校の特待生に選ばれたと思ったかもしれません。

しかし「油注ぎ」は特別な意味をもっていました。これは「メシア」の語源となったことばで、祭司と預言者と王が任命される時に行われていた儀式でした。それゆえに、「主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った」のです。新約聖書の時代では、主の霊はキリストの霊であり、聖霊のことを意味するようになります。主に選ばれた者に与えられる神の臨在の約束なのです。

これ以降、ダビデは主の霊に導かれてゴリアテとの戦いやサウル王との確執などの困難を経験することになります。しかし、その試練によって彼は一歩一歩成長し、主のみことばに聞き従う王になっていくのです。私たちも同じです。愛の神に選ばれたからこそ、聖霊の助けによって試練を乗り越えていけると確信しましょう。

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