「王を求める声」 Ⅰサムエル8:1-22
彼らはあなたを拒んだのではなく、わたしが王として彼らを治めることを拒んだのだから。(7節)
12部族の連合体として士師による政治が2百年ほど続いた後、神はサムエルを選ばれてイスラエルの指導者となさいました。しかし、周辺諸国が王を立てて中央集権政治を行うようになったので、イスラエルもそのような軍事的に強い政治形態をとりたいと願うようになったのです。
一、士師が指導者なのか
サムエルは、宗教的にも政治的にも卓越した指導者として活躍していました。しかし、彼が士師として任命した息子たちは父のような高潔さを持たず、好き勝手な生き方をしていたのです。本来、特別な賜物を授けられている人が神に選ばれて士師となるべきなのに、世襲制になってしまいました。長老たちが息子たちの歩みを見てサムエルに訴えたことは当然と言えます。
どんな立派な制度や政治体制であっても、人が権力のうまみを味わい、自分の利益を求めるようになると、それは次第に腐敗してきます。現在の民主政治でも、その危険性から逃れることはできません。周辺諸国が軍事的に強くなれば、自分たちを守るために強い指導者を求めるようになるのです。現在の日本も、似通った状態になっているように思われます。
二、神が指導者なのか
長老たちの「私たちをさばく王を立ててください」という声は、神こそがイスラエルの指導者であり王であることを否定することでした。神以外のものに拠り頼もうとする姿は、偶像崇拝と似ています。どんな人物が王になろうと、神がこの国の真の指導者であるなら、それは「神の国」なのです。でも、それを否定するなら、イスラエルはもはや「神の国」と言えません。
「神が王」というと、戦前のわが国や、現代のイスラム諸国のように、熱狂的で恐ろしい国のように思われます。でもそれは聖書のいう意味ではありません。逆に、どんな人間をも神としない国、人間の支配を絶対的なものにしない国こそが真の神の国です。ある特定の人物が崇拝され、その人の意志で国が動くようになるなら、それは最も危険な状態です。自分以上のお方がおられることを否定するようになるからです。
三、王が指導者なのか
しかし神は、「王を立ててください」と言う長老たちの願いを聞き入れるよう、サムエルに示されました。と同時に、王政のもつ根本的な問題を明確に教えるように命じられました。戦争・徴兵・税金・官僚・奴隷などの様々な負担を、民は負わねばならなくなります。それでも彼らは王を求めました。他国と肩を並べたかったからです。「神の国」ではなく、「人の国」を作りたかったのです。現代でも多くの人が同じように思っています。
世界には様々な政治制度があります。試行錯誤を繰り返しながら、より良いものを求めているからでしょう。民主政治もその一つですが、決して絶対的ではないことを、最近の選挙結果は教えています。指導者が権力を用いるときには、弱い立場の人々に対する配慮を忘れてはなりません。自分や自分の国の豊かさのみを求めているなら、世界は争いに満ちたものとなります。
教会は「神の国」を部分的に示しています。様々な問題があっても、神と人を愛する共同体を目指そうではありませんか。牧師が王のようになってはならず、役員が官僚のようになってはいけません。皆がキリストのしもべとなり、キリストに仕えるなら、神の国はそこに現れます。