2025.1.12メッセージ内容

「感謝する人」 ルカ17:11-19

そのうちの一人は、自分が癒やされたことが分かると…足もとにひれ伏して感謝した。(15節)

2000年前のユダヤ人社会では、ツァラアト(ライ病)は最も恐れられていた病気の一つでした。その患者は神に捨てられた人だと考えられて、町の中で生活することはできませんでした。主イエスの一行がエルサレムへの旅の途上、患者が共同生活していた地域のそばを通られた時、うわさを聞いていた10人が主に叫んだのです。

一、10人の求め

律法によれば、彼らは「汚れた者です」と叫びながら歩まねばなりませんでした。でも彼らは、遠くから主の姿を見つけると、「私たちをあわれんでください」と声を張り上げます。汚れた自分の姿を知っているからこそ、必死で主に叫び求めたのです。先週の盲人より、はるかに熱心な求めでした。すでに主が何人かの患者を癒やされていたことを知っていたからでしょう。

主イエスへの叫びは、自分のみじめな姿を知れば知るほど、強くなります。特に病院などなかった時代には、重病に悩む人は奇跡的な癒やしを期待する以外に方法がありませんでした。現在は医学が進歩し、良い薬も手に入るので、彼らほどの熱心さを持つ人は少ないでしょう。同様に、自分の罪の深さを知り、そこからきよめられたいという熱心な願いをもつ人も多くはありません。

二、10人の癒やし

主イエスは、熱心に癒やしを求める患者に「自分のからだを祭司に見せなさい」と言われます。治っていないのにそうするのを躊躇した人もいたかもしれません。でもそんな人に対して、「いや、それでも行こう。他に方法がないのだから」と励ます人がいたのではないでしょうか。そして主のことばに従って、「汚れた者です」と言いながら歩んでいる途中に奇跡がおこりました。

クリスチャンも、罪の赦しを信じて主イエスを信じました。過去の罪は赦されたと信じることはできても、まだ自分の心に悪い思いがあることを否定できない人も多くいます。そんな人に、「いや、主は必ず変えてくださると信頼し続けよう」と励ます人が必要なのです。教会とはそのような場であることを知ってください。この歩みの中で、主のみわざは明らかにされます。

三、1人の応答

祭司のところへ向かう途中、彼らは10人とも癒やされました。それがわかった時、彼らは小躍りしながら祭司の家に向かったと思われます。確かにその喜びはわかります。しかし、一人だけは踵を返して、今来た道を引き返しました。病気を癒やしてくださった主への感謝が彼の心に溢れていたからです。彼は、患者の中でも低く見られていたサマリア人だったことも重要です。

祭司のところに行くことは必要不可欠なことです。しかし、最初に主に感謝することはもっと大切なことであると知ってください。私たちの生活でも、健康/衣食住/家族/職場/学校などが備えられていることを当たりまえに思ってはいけません。これらに対する感謝があってこそ、私たちの日ごとの歩みは変えられていくのです。罪深い者であっても、主のあわれみは注がれています。

「あなたの信仰があなたを救った」と主イエスは彼に言われました。他の9人と何が違っていたのでしょうか。彼は、主への感謝に溢れていたことです。彼の信仰とは、祭司に対する宗教的義務を果たすこと以上に、主イエスの恵みを喜ぶことでした。私たちも、そのような主との繋がりを、どんな時も持ち続けているでしょうか。

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