2025.1.5メッセージ内容

「主イエスの使命」 ヨハネ9:1-12

わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを、昼のうちに行わなければなりません。(4節)

主イエス・キリストは公生涯の3年間に、多くの奇跡をなさいました。それは人を驚かせるためではありません。ご自分がこの地上に神の国を実現するメシアとして来られたことを示すためでした。この箇所に登場する盲人の目を開かれたのも、単なる癒やしの奇跡ではなく、主の使命を人々に知らせるためのものだったのです。

一、肉体の目が開かれる

旧約聖書には、メシアが来られて盲人の目を開いてくださるという預言が何か所かにあります。でもこの盲人はそのことが自分の身に起こるとは思いもしませんでした。ただ道端で物乞いをするだけのみじめな日々を過ごしていたのです。主はこの人に自分のほうから近づき、唾で作った泥を塗られました。彼に希望を与え、自分の意志でシロアムの池に行かせるためでした。

盲人はそんなことで見えるようになると信じられなかったかもしれません。しかし、素直に主のことばを信頼し、そのようにしました。すると見えるようになったのです。どんなに嬉しかったことでしょう。彼がそれまで何の関わりもなかった「イエスという方」を信頼することで、世界が変わってしまったのです。肉体の目が開かれるためにも信頼することは不可欠です。

二、霊の目が開かれる

弟子たちは、当時の多くの人々と同様、生まれつき盲目なのは本人か親か、どちらかが罪を犯したからだと考えていました。当時の知識階級だったパリサイ人も同じ考えをもっていたゆえに、この奇跡を素直に受け入れることができなかったのです。特にこの日が安息日だったので、主イエスがこの癒やしの奇跡をなさったことは、律法違反だと決めつけてしまいました。

パリサイ人も旧約聖書を知っていたはずです。でも、盲人を見えるようにした方がメシアだとは考えもしませんでした。安息日の規定を破ることのほうがもっと大きな問題だと受けとめていたのです。パリサイ人の目は霊的なことについて閉じられていたと言えるでしょう。主の言われたように、「私たちは見える」と偉そうに言うことこそ実は霊的な目が見えない証拠でした。

三、神の子を信頼する

シロアムとは「遣わされた者」という意味です。主イエスは、神がどういうお方かを人に伝えるために遣わされた方であることが象徴的に示されています。神は、人がご自分から離れてしまい、もはや神に信頼しようとしなくなっていることに心を痛めて、主イエスを遣わされたのです。このことを受け入れる霊的な目が開かれることが、何よりも大切なことであると知ってください。

この盲人は、自分の目が見えるようになったことを経験して、主を神の子と信じました(38節)。これこそ、主が癒やしをなさった目的です。神の国は肉体の不自由な者が健全になる所です。いえ、肉体だけでなく、心も魂も新たになる所です。肉眼で見えない神が見えるようになり、このお方とどんな時でも一緒に過ごすところこそ、神の国であることに気づいてください。

どんな人も、霊の目が開かれなければ主イエスを神の子と認め、信頼することはできません。「心のきよい者は幸いです、その人は神を見るからです」という主のことばは今でも真実です。きよい者とは、品行方正な人物ではなく、常に神を見ている人です。この地上の苦難ではなく、全てを善にしてくださる神を信頼する人です。

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