「主イエスの使命」 ルカ2:21-35
私の目があなたの御救いを見たからです。あなたが万民の前に備えられた救いを。(30-31節)
イエス・キリストが私たちと同じからだをもって誕生されたことは、その歩みに私たちが倣うために他なりません。ルカは、聖書記者の中で唯一の異邦人として、主の全世界的な使命を理解し、それをシメオンのことばに見つけ出したのです。彼はキリスト(メシア)を待望しており、幼な子イエスこそメシアの使命を果たす方だと預言しました。
一、全き人となる使命
幼な子イエスは生後8日が満ちて割礼を施され、また40日後には20kmほど北にあるエルサレムの神殿に連れて行かれました。これは、全てのイスラエル人がなすべきことで、子どもは神のものであることを自覚するための通過儀礼でした。主は普通のユダヤ人としての生き方をされたのです。救い主となるためには、私たち人間と100%等しくなることが不可欠だからです。
両親が献げたいけにえは、レビ記12章によると、最も貧しい人が献げるものであったことに注目しましょう。飼葉桶に寝かされたのと同様に、主は貧しい者の一人となられたことがここに暗示されています。聖書は貧しさを良い意味で用いています。貧しいからこそ、物ではなく神に信頼するからです。貧しいから金持ちになることを求めるような生き方ではありません。
二、全き救い主となる使命
シメオンは、聖霊に導かれて宮に入りました。その時、幼な子を連れて入ってきた両親に会います。彼はこの幼な子が主の救いをこの地上において表す使命をもたれることを一目で見抜きました。しかも、ユダヤ人だけではなく「異邦人を照らす啓示の光」であることも預言したのです。この真理が示されたのは聖霊の働きによることを忘れてはなりません。
当時の多くのユダヤ人は、自分たちの民族の救いを願い求めていました。ローマ帝国の圧政の下にあったからです。シメオンの主眼点もそこにあったと思われますが、幼な子と会った時は違っていました。後に「聖霊があなたがたの上にくだるとき・・・地の果てまでわたしの証人となる」と主が宣言される世界宣教は、すでにこの時に神のご計画の中にあったことがわかります。
三、全き犠牲となる使命
神のご計画による全人類の救いは、政治的な救いでも物質的な救いでもありませんでした。地上に人として生きる限り、それらの問題は必ず起こります。しかし真の救いは、人を神との交わりに連れ戻し、神の御心に従って歩む者へと変えることです。そうするなら、人と人との間に平和をもたらすことができます。そのためには、罪を指摘し、その赦しの道を開くことが不可欠です。
それが、この幼な子がたどる道でした。人々に神の御心を示すことによってかえって反対され、十字架につけられることになるのです。それは母マリアの心を剣が刺し貫くようなことでした。しかし、この犠牲がなければ神のさばきから逃れることはできません。十字架こそ、動物のいけにえでは決してできない、全き犠牲だからです。シメオンにこの真理を教えたのは聖霊でした。
主イエスの使命がわかるなら、私たちの使命もわかってきます。自分の繁栄を求めるのではなく、人々の幸せのために生きることの重要性を理解できるようになるのです。主イエスのように十字架にかかることがなくても、愛をもって人々に仕えるという生き方は、私たちも倣うことができるのではないでしょうか。