2024.11.17メッセージ内容

「闇に輝く光」 ヨハネ8:1-12

わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。(12節)

「北風と太陽」のたとえ話しは有名です。主イエスは、まさに太陽のように人々の心の闇を照らされますが、それだけでなく、闇を光に変えてくださることを知ってください。今日の「姦淫の女」の記事から、主イエスがどのように人を変えてくださるのかを学んでみましょう。

一、律法学者が理解した光

律法学者やパリサイ人は、モーセの律法を守っていない人は、闇の中を歩む罪人だと考えていました。だから罪の赦しを解く主イエスを異端者のように思って、告発する理由を得ようと画策していたのです。そして、一人の女性を姦淫の現場で捕らえ、主の前に引きずり出しました。そのような罪人は律法の光に従って石打ちにすべきだ、というのが彼らの主張でした。

もし主がこの女を赦すなら、律法を守らない悪者として主を訴えることができます。彼らはこの女性を罰することが正義で、それが闇の世界を明るくすることだと認識していたのです。しかし、罰則で人を変えることはできないことは、多くの実例から示されます。現在でも、裁判によって刑務所に入った人が、そこから出たとたんに再び罪を犯している例をよく聞きます。

二、一般の人が受けとめた光

律法学者が問い続ける中で、主は地面に何かを書いておられました。それは、モーセの十戒だったのではないかと推測されます。その中には、「姦淫するな」という条項だけでなく、「神だけを礼拝せよ」、「父と母を敬え」「偽証するな」「人の物をむさぼるな」という命令が含まれていました。その場にいた人たちは、それらの命令を読んで心に光が差し込んだのではないでしょうか。

そういう人は、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい」と主が言われたとき、自分にはそれができないと、認めざるを得ませんでした。年齢を重ねた人ほど、それがわかります。だから年長者から始まり、一人、また一人と去って行きました。その様子を見て、律法学者たちもその場から逃げ出したのです。正直に考えるなら、主の示される光の中では、どんな人間も罪人であることは否定できません。

三、主イエスが分け与えられた光

主はこの女性に、「わたしもあなたにさばきを下さない」と宣言されました。罪のない神の子であるなら、さばくことができたはずですが、主はあえてそう言われました。自分の罪を認めた者はさばかれない、ということこそ、主イエスが延べ伝えておられた福音だからです。しかし同時に、「これからは決して罪を犯してはならない」と伝えることも、主の大きな任務でした。

もしこの女性がそれまでいた環境に戻るなら、再び罪を犯す可能性は大きかったでしょう。だからこそ主は、「わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがない」と言われました。それまでの生活を止め、主イエスと行動を共にするという生き方です。世の光である主イエスは、闇の世界を暴露するだけではなく、そこに光をもたらされるのです。光と共に歩むなら、闇は光に変わります。

主イエスがこの地上に来られたのは、闇の中に歩む人々に真の光をもたらすためでした。自分が闇であることを正直に認めた上で、光である主イエスに従う者となりましょう。たとえ自分の内に光がないとしても、光なるお方が内におられるなら、周囲は少しでも明るくなるのです。闇に輝く光となれるのです。

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