「弱い時にこそ強い」 Ⅱコリント12:7-10
わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである。(9節)
だれも困難と直面する時があります。それを乗り超えた人もおられるでしょうし、今もそれと戦っている人もおられるでしょう。この聖書箇所を書いたパウロという人は、まさに困難の真っ最中にありました。彼は、次のような3つの点において、自分の弱さを実感していたのです。
一、慢性的な病気による弱さ
具体的な病名はわかりませんが、突然襲ってくる頭痛か、あるいは眼病のようなものではなかったかと推測されています。彼はそれを「肉体のとげ」、また「サタンの使い」と表現しています。この病気がなければもっと頑張って仕事ができるのにと思っていたかもしれません。注目したいのは、それは「私が高慢にならないように」と、病気の意味を明確に知っていたことです。
病気や事故、あるいは天災などに遭遇すると、「なぜ私にこんなことがおこるのか」という疑問が出るかもしれません。でも、困難にあわねば出世できるのにと考えるなら、それは高慢でしょう。病気になってこそ、他人の痛みがわかるとともに、健康のありがたさにも気が付くのです。病気や困難を経験することによって、私たちは人間としてより成長するのではないでしょうか。
二、祈りが聞かれないという弱さ
パウロは昔、キリスト信徒を迫害していました。しかし、そんな自分をも神が愛しておられることを知ったゆえに彼の生涯は180度転換し、キリストこそ真の神であると伝える人になったのです。だから、彼は何をするにしても神に祈り、神の力によって伝道してきました。ところが、この病気を癒やしてほしい、と3度も祈ったのに、その願いは聞きとどけられませんでした。
世界には様々な宗教があり、様々な祈りがささげられています。誰に祈るかは千差万別でしょうが、自分にはできないからこそ、祈るのです。もし祈りを叶えてくれる神なら信じるというのなら、偉いのは自分のほうです。しかしパウロは、自分が祈ったように実現しなくても、その信仰は弱まりませんでした。叶えられない祈りは弱いように思えますが、そうではありません。なぜそう言えるのか。パウロの次のように説明します。
三、弱さを知ることによる強さ
主はパウロに「わたしの恵みはあなたに十分ある」と言われました。たとえどのような困難があり、どのような弱さがあったとしても、キリストによって示された神の愛はパウロに十分注がれているのです。「恵み」とは、弱い者だからこそ理解できる神の力に他なりません。自分には力があると己惚れている者は、この神の恵みを受け取ることは不可能だと知ってください。
最後にパウロは断言します。「キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」と。自分が弱い者だからこそ、自分に頼らず、キリストに頼るという「絶対他力」こそが、パウロの真骨頂でした。その結果、「私が弱いときにこそ、私は強い」という、普通の人間では経験することのできない真理を自分のものにしたのです。
いま困難の中にある人、自分は弱いと思っている人、そのような人々に聖書は語っています。弱い時こそチャンスだと。自分が弱いからもはや自分の力に頼ることはやめましょう。かえって、目に見えなくても、自分と共に歩み、どんな時でも支えてくださるお方に信頼して日々を生きていきましょう。それが本当の強さなのです。