「罪の恐ろしさ」 ヨシュア7:18-21
確かに私はイスラエルの神、主に対して罪を犯しました。私は次のようなことをしました。(20節)
イスラエルの民が約束の地に入った後にすべきことは、「すでに与えている」と主が言われた場所を実際に占領することです。強固なエリコの町と戦った時には、ひたすら主に祈ったヨシュアたちでしたが、次の町アイを攻略する時は、小さな町だという理由で、主に祈ることなく進軍しました。結果は無残な敗北でした。
一、敗北の原因を追求する
モーセの後継者だったヨシュアは、ひれ伏して必死で主に祈り求めます。主がここまで導いてくださったのに、ここで退却することになるのなら、主の約束は実現しないことになるからです。主ははっきりと、「聖絶の物を自分のものとした」ことが原因だと知らされました。「聖絶」とは、神のものを神にお返しすることであり、人はそれを自分のものにしてはならないのです。
私たちは、すべてのものを神から預けられていることを忘れてはなりません。健康・命・仕事・家庭・財産、これらはただ主の恵みによって、地上の生活をするために預けられているのです。しかし私たちは、自分が努力したので、不自由なく暮らしていけるのだと思ってしまいます。自分の力で何でも解決しようと奮闘するのです。その結果、しばしば失敗するのではないでしょうか。
二、アカンの罪が明らかにされる
主はだれが「聖絶の物」を自分のものにしたのかはおっしゃっていません。そこでくじが用いられました。その過程で、罪を犯した人が自ら名乗り出て、告白することを願っておられたのでしょう。しかし名乗り出ることはありませんでした。隠し通せると思ったのでしょうか。アカンにくじが当たったとき、ヨシュアが「主に告白しなさい」と言ったのは、主を騙すことはできないからです。
この世界では、罪を隠し通している人はたくさんいることでしょう。人間が定めた法律や捜査には限界があることは明白です。しかし、神を誤魔化すことはできません。いずれ私たちは、神の前に出なくてはならないことが、聖書には明確に記されています。だからこそ、たとえ小さな罪であっても、主の前に告白し、悔い改めることが必要です。それは毎日すべきことです。
三、罪の解決が求められる
アカンは最後に告白しました。様々な物を盗んだことが、「主に対して罪を犯した」ことだと悟ったからです。たとえそれが敵の物品であろうと、本来は神のものです。イスラエルが戦利品として自分のものにしてはならないのです。これは、カナンの国を占領していくプロセスにおいて忘れてはならない原則でした。イスラエルの民がこの原則を守っておれば歴史は違ったでしょう。
現在のイスラエルの行動を見る時、その原則を忘れているとしか思えません。現在の国家は神から預かっているものであり、世界の祝福のために用いられるべきものであるにも関わらず、自分たちの国家に指一本触れさせようとしない指導者が悔い改めるように祈ります。私たち一人ひとりも、すべてが預り物であることを自覚して、謙遜に感謝すべきなのです。
神のものを自分のものと考える過ちが、様々な具体的な罪の引き金になります。今、預けられているものを心から感謝して、それを自分と家族のために用いようではありませんか。自分の力でこのように豊かになったと考えてはなりません。主に寄り頼んで謙遜に生きる日々こそが、本当の意味で祝福された者の歩みなのです。