2024.9.22メッセージ内容

「罪に直面する」 出エジプト32:7-20

すると主は、その民に下すと言ったわざわいを思い直された。(14節)

シナイ山でモーセに十戒を示された主は、この戒めを石の板に記されました。また、罪の赦しのための幕屋の仕様も示されました。その期間が、40日にも及んだので、民は不安になります。そして事もあろうに、金の子牛の像を造り、それを礼拝し始めたのです。神のことばに従わない人間の罪の姿がここに明らかにされています。

一、罪の源

指導者であるモーセがいつまでも山から下りてこないので、民は心配になったのでしょう。アロンに「われわれに先立って行く神々を造ってほしい」と求めました。これは十戒の第一戒と第二戒に背くことです。自分の不安解消や利益獲得のために神を造ることは人間の犯す最大の罪であり、この人間中心主義が、昔も今も、世界を混乱に陥らせてきました。まさに罪の源です。

 歴史上起こってきた戦争は、自分たちの領土を広げたり、資源を獲得したりするためであることが多いものです。そのために多くの人々の命が失われ、建物が破壊されてきました。80年前の日本の戦争も、自国だけでなく諸外国に、どれほど多くの損失を与えたことでしょうか。自分の望むことを何よりも重要な「神」として祭り上げることは恐ろしい罪の源です。

二、罪のとりなし

主は当然にもこの罪に対して怒り、イスラエルの民を滅ぼして、モーセを新しく神の民とすると語られました。しかしモーセは、必死に民のためにとりなしの祈りをします。どんなに悪い民であっても、彼らは神が選ばれたものではないか。彼らが滅びることは、主の悪評の原因となる。主が先祖に約束なさったことが実現しない。モーセは必死に神と談判するのです。そして神も、わざわいを下すことを思い直されました。

こんなにも早く、神の戒めを守ろうとしない民のためにとりなしの祈りをするモーセは、私たちの模範です。モーセは人々の罪を指摘するだけでなく、その罪を赦してほしいと祈るのです。これは、現在の私たちがなすべきことでもあります。たとえ私たちの家族や親しい友人が神に背を向けていたとしても、その人たちが神に立ち返るように祈ることを忘れてはなりません。

三、罪のさばき

モーセがシナイ山から下りて行くと、確かに民はアロンの造った金の子牛の周りで躍りまわっていました。主からすでに聞いていたとはいえ、モーセの怒りは燃え上がり、持っていた十戒の石の板を彼らに向かって投げ捨てました。後にモーセは、レビ人に命じてこのことを起こした首謀者を殺すことになります。罪が残っているなら、民に悪い影響をもたらすからです。

しかし、モーセはさばきを下す時に、どれほど大きな痛みを感じていたことでしょう。神さまは思い直されたにも関わらず、彼が厳しいさばきを下したのには理由があります。神は罪人を憐れまれるけれども、神の義に従うことを望まれていることを示すためなのです。主のみ旨に従って歩めない罪ある私たちのために、御子イエスを身代わりにされたこともそのためでした。

罪をうやむやにしてはなりません。罪をそのままにしておくと、その人もその社会も乱れてしまいます。そうならないように、旧約の時代には犠牲の動物が殺され、新約の時代には神の子が十字架につけられました。そして、聖霊が私たちを罪から救うために働いておられるのです。

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