「荒野の試み」 出エジプト16:1-12
こうしてあなたがたは、わたしがあなたがたの神、主であることを知る。(12節)
イスラエルの民が約束の地を目指して荒野を旅する姿は、クリスチャンが天国を目指して歩む姿と似ています。そこには様々な苦難がありました。でもそのような苦難は、民が神のことばを信頼して従うかどうかを試すためのものだったのです。何度も不平を言う愚かな民を主は忍耐をもって導き、主に信頼することを教えられました。
一、飲み物についての不平(15章)
葦の海で水が二つに分かれるという驚くべき奇跡を目前に見た民でした。しかし、3日たったとき、持参していた水がなくなります。やっと泉を捜しあてたのですが、そこの水は苦くて飲めません。民は不平を言いました。でも、モーセが主に示された一本の木を泉に投げ込むと、その水は飲めるようになったのです。この木は、新約聖書で示される十字架のひな型でした。
だれの人生にも苦く厳しい出来事が起こります。その時に不平を言うのはあたりまえかもしれません。しかし主イエスは自分が十字架を負うことによって、人々の苦しみを共に担う方であることを示されたのです。精神的苦痛だけでなく、肉体的苦痛も主は負われました。だからこそ主は、「わたしは主、あなたを癒やす者だからである」と宣言されていることを知ってください。
二、食べ物についての不平
民がエジプトを出てちょうど1カ月たったとき、こんどは食物がなくなりました。途方にくれた民は、「エジプトのほうが良かった」と、またしても不平を言います。主はその不平をも聞かれ、季節風にのって飛んできたうずらの大群を備えてくださいました。さらに、民が過去に経験したことのない食べ物をパンの代わりに与えられました。人々は、「マナ(これは何)?」と驚きます。
うずらにしてもマナにしても、自然の営みとして理解することはできますが、ちょうどこのような時期に、しかも大量に与えられたことは神の働きとして受け取ることが大切です。モーセは民が不平を言うたびに祈り求め、その結果として、「主があなたがたの不平を聞かれた」と宣言したことを心にとめましょう。主なる神は本当に忍耐深いお方であることがわかります。
三、不平を言う者への憐み
何度も不平を言う愚かなイスラエルの民でしたが、主は決して彼らを見放すことをなさいませんでした。かえって、「主の栄光が雲の中に現れた」のです。これは彼らに神の臨在を示すしるしであり、主がいかなる方であるかを民が知るためになされたことでした。欲張ってマナをたくさん集めたり、安息日にも得ようとしたりする愚かな民さえも、主は憐れまれたのです。
私たちも同じように愚かな者です。主は今まで何度も何度も私たちを助け、必要なものを与えて下さいました。それでも、自分の思い通りにならない時は不平を言うようなこともありました。そんな愚かな者を主は憐れんでくださるのです。この事実を体験するなら、たとえ苦難があったとしても、主の前に出ることができます。主の憐れみを求めることができるのです。
思いがけない出来事がおこる時代です。自然災害だけでなく、国家の争いや家庭の不和など、不安要素はたくさんあります。そんな時代でも、私たちは「歌いつつ歩まんハレルヤ、ハレルヤ」と賛美できる者となりたいですね。主なる神は、荒野を旅する私たちを導き、必ず約束の地に入らせてくださるのですから。