2024.9.1メッセージ内容

「導かれる神」 出エジプト13:17-22

昼はこの雲の柱が、夜はこの火の柱が、民の前から離れることはなかった。(22節)

奴隷として苦難の生活を強いられていたイスラエルの民を救い出すため、主はモーセを選ばれてエジプト王ファラオと対決なさいました。頑なな王の心を砕くために備えられた10の災いによって王はしぶしぶ了解するのですが、民が約束の地カナンに戻るためにどうしても必要だったのが神の導きだったのです。

一、導かれない導き

当時、エジプトからカナンに行くためには、地中海にそって北上する通商路と、荒野を経由して内陸部を通る通商路がありました。距離として短く、道も平坦な海岸線ですが、そこには屈強なペリシテ人が住んでいて、イスラエルの民がそこを通るときに争いがおこることは目に見えていました。それゆえに主は、この道に民を導かれなかったのです。神の憐れみゆえの導きでした。

古代には、現在以上に民族間の争いが何度も起こっていました。単に道を通るだけでも、疑心暗鬼、非情な殺戮が繰り返されていました。主はそのような争いを望まれていません。たとえ困難であっても、争いの少ない道に導かれるのです。私たちの場合も、主はあえて容易な道に導かれない場合もあります。そんな時、それを主の導きとして受け入れることが信仰なのです。

二、先祖の信仰にそった導き

イスラエルの民は、彼らがエジプトに移住するきっかけを作った先祖ヨセフの遺骸を携えていました。これは、ヨセフ自身も望んでいたことでした(創50:25)。エジプト滞在は飢饉から逃れる方法であっても、滞在し続けることはみ旨でないことを理解していたのです。400年間のエジプト滞在は、イスラエルの民が増加するためだったとしても、最終目的ではありませんでした。

私たちの人生の最終目的は何でしょう。地上においても主は、私たちの生活を守り支えて下さいます。しかし、私たちの目指すのは、アブラハムのように「天の故郷」であることを忘れてはなりません(ヘブル11:16)。だれも、いずれはこの地上の生涯を終える時があります。その時、この地上に未練をもつのではなく、「もっと良い故郷」があることを認めることができるでしょうか。

三、象徴を通しての導き

隊列を組んで出ていくイスラエルの民を導くために、主は「雲の柱」と「火の柱」を用いられたことが記されています。太陽が照りつける荒野を通るときには雲がその日差しを和らげてくれます。また、夜になると寒くなるのですが、それを防いでくれる火がありました。具体的な事物が何かは不明でも、これらは主が彼らの前を進まれることを示す象徴であったことが大切です。

今でも国旗が国を象徴するように、雲の柱と火の柱は、主がイスラエルの民と共にあり、彼らを導いて下さっていることを示す象徴でした。雲を見、火を見るたびに、民は主なる神が自分たちを導いてくださっていることを思い出したのです。この事実は、イエス・キリストがこの地上に誕生された後には、より明確になりました。主イエスが私たちの日々の歩みを導かれています。

新約聖書には、変貌山の記事には雲が主イエスを覆ったことが記され、ペンテコステの日に火が降ったことが述べられています。私たちの毎日の生活においても、主が共におられて導いてくださっているという信仰があるなら、心配する必要は何もありません。主の愛の導きの手を信頼して、一歩一歩進んでいきましょう。

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