2024.7.7メッセージ内容

「嵐にあうとき」 マルコ4:35-41

風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどなたなのだろうか。(41節)

7月は主イエスのなされた奇跡について学びます。主が奇跡をなされたのは、決して人々を驚かせるためではなく、ご自分がどういう方かを示すためでした。病気の人を愛されただけではなく、自然界をも従わせる力をもたれる方なのです。嵐を静められた主は、人生の嵐をも静められることを弟子たちは経験しました。

一、あわてる弟子

ある日の夕方、主と弟子たちはガリラヤ湖畔を小舟で横断されました。普通なら2時間程で着くことのできるほどの距離です。東西を山で囲まれているこの湖には、時々北からの突風が吹き荒れます。何人かの弟子たちは漁師でしたし、そのことも知っていたでしょう。でもかなり長時間続くこの嵐に弟子たちは翻弄され、ついに主に叫び求めたのです。

私たちの生涯にも同じような嵐がやってきます。小さな嵐なら何度か経験してきたことでしょう。しかし想定外の苦難にあうこともあります。そんな時、主が共におられることを忘れていた自分に気づくのです。「私たちが死んでもかまわないのですか」と叫ぶのです。主は、私たちが自分の弱さに気づいて、心から祈り求めることを願っておられることを知ってください。

二、眠っている主

そんな大騒動をしているにもかかわらず、主は船尾で眠っておられました。はじめは遠慮して、主に声をかけるのを遠慮していた弟子たちでしたが、ついにこらえきれず、大声で主を起こします。「私たちが死んでもかまわないのですか」とは、主に対する批判のことばでもありました。「主は自分たちの命のことに無関心なのか」という気持ちが表れています。

私たちも、「自分が苦労しているのに主は助けてくださらない、黙っておられる」と思い込んでいることがあります。遠藤周作著の『沈黙』は、このことをテーマとしています。しかし詩篇121:4には「イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない」と記されています。嵐に悩む者たちと共におられるのです。そのお方に呼び求めるかどうかが問われています。 

三、信仰による解決

起き上がられた主は風を叱りつけ、湖に「黙れ、静まれ」と命じられました。すると風はやみ、すっかり凪になりました。その後で主は弟子たちに、「まだ信仰がないのですか」と言われたことに注目しましょう。弟子たちはすでに主の奇跡を見ていました。しかし、嵐を静めることができるとは思ってもいませんでした。天地を創造された方ならできるはずだという信仰はなかったのです。

私たちの生涯を振り返ってみても、主は様々なところで私たちを支えてくださっていました。でも、これまで以上の大問題に出くわしたとき、主は本当に助けてくださるのだろうかと思う場合もあります。それが人間の弱さです。その時に、主を信頼することは簡単ではありません。しかし叫び求めることはできます。そのことによって、主に対する信頼が増し加わるのです。

主イエスは、私たちが想定する以上の偉大なお方です。こんなことをお願いしても無駄だろうと思わないでください。主は私たちにこのことを教えるために、あえて嵐を与えられることもあります。しかも、どんな嵐の中でも、主はあなたと同じ舟に乗っておられるのです。遠慮なく、「主よ、お助けください」と叫びましょう。

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