「魂のふるさと」 ルカ15:11-24
この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。(24節)
譬え話シリーズの最後は、最も有名な放蕩息子の譬えで、父のもとにいることに不自由を感じた息子が、落ちぶれた後に故郷に戻ってくる話です。この息子は罪ある人間を、そして待ち続けた父は愛に満ちた神を譬えています。私たち人間にも、ふるさとで待ち続けている父なる神がおられることを知ってください。
一、ふるさとを出て行った息子
親のもとにいることに不自由さを感じる若者は昔も今も数多くいます。この息子は、自分は必ず成功すると信じていたので、親の生きている間に遺産相続をしてもらい、大金を懐に抱いて遠い国に旅立ちました。しかし彼は、自分が思うほど強い人間ではありませんでした。立派な夢を抱いてはいても、それを実現する力をもっていなかったのです。
私たち人間も、長い歴史をかけて繁栄を求めてきました。物質的に豊かになるという夢を抱いて多くの便利なものを発明してきました。見える世界で楽しく暮らせたらそれで良いと考え、見えない神など、何の役にも立たないと思っている人々が大多数です。しかしそれは、この弟息子がたどってきた道と類似しています。本当に人間は、自分の力で何でもできるのでしょうか。
二、落ちぶれた息子
お金のある間は皆にちやほやされ、楽しく過ごしたでしょう。しかし、金がなくなったとたん、友だちはいなくなり、さらにはげしい飢饉がおこりました。挙句の果て、ユダヤ人に嫌われていた豚の世話をせざるを得なくなったのです。食べる物がなくなった息子は、やっとふるさとを思い出しました。もし彼が、ふるさとの父を思い出さなかったら、もっと悲惨なことになったでしょう。
この息子は、神の束縛を嫌った人間の行く末を暗示しています。確かに豊かな生活をすることができました。しかし心に何かしらの不安を抱えているのです。現代にも地震等の自然災害をはじめとして、戦争や家庭崩壊などの様々な問題が山積しています。人間の知恵や努力である程度の回復は可能でしょう。しかし、死に対する不安を解決することはできません。
三、父のもとに帰った息子
自分のみじめな姿を親に見せるのはいやだったでしょう。しかし彼は、天に対しても、父親に対しても罪を犯したことを認め、ありのままの姿でふるさとに帰る決断をしたのです。父親は、彼がこのような結末に至ることを想定していたのでしょう。彼が帰ってくるのを今か今かと待ちわびていました。だから遠くから彼を認め、昔と変わらず息子として迎えたのです。
寛大すぎる父親でしょうか。でもそれが魂のふるさとにおられる父なる神なのです。神は私たちの弱さを知っておられ、苦しむ時にも「わたしのもとに帰っておいで」と招き続けておられます。「自分で何とかする」と虚勢を張る必要はありません。息子は肉体的には生きていましたが、父のもとから出で行ったとき、死んだのです。帰ってきた彼は、生き返ったと父親は言っています。
「罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちの前には喜びがある」のです(10節)。死んでいた者が生き返り、新しい人生が始まることは、神にも御使いにも大きな喜びとなります。この新しい命は、神との親しい交わりで保たれます。兄息子のように、父親と共にいることの喜びを忘れるようなことがあってはなりません。