2024.4.21メッセージ内容

「お金か、いのちか」 ルカ12:13-21

人があり余るほど持っていても、その人のいのちは財産にあるのではないからです。(15節)

主イエスは、当時の民衆に分かりやすい譬え話を用いて、神の国の深い真理を教えられました。農業や牧畜の話しが多いのはそのためです。今日の個所でも遺産相続の相談をされたときに、金持ちの農夫の話しを用いられました。現在も同じような質問をする人があるかと思います。この農夫はどのように生きていたのでしょうか。

一、勤勉に働いた

確かにこの農夫は立派でした。親から受け継いだ畑だったと思われますが、一年中勤勉に働き、豊かな収穫物を得たのです。この年は特別に豊作で、しまっておく倉が足りなくなるほどでした。彼は成功者で、きっと周辺でも有名な人物になったことでしょう。そのことは決して悪いことではありません。今でもそのような勤勉な金持ちは世界にたくさんいます。

ただ、彼のことばに注意してください。「私の作物、私の倉、私の穀物や財産」と、すべてが自分のものだと考えていたのです。自分の力でやったと傲慢になっています。自分の健康、気象条件の良さ、畑で働いていた労働者の苦労などは眼中にありません。もちろん、天地を支配しておられる神様への感謝も働き人への感謝もないのです。私たちはどうでしょうか。

二、安心を得ようとした

彼がこれほど一生懸命に働いたのは、豊かさだけでなく名誉心をもちたかったからかもしれません。金持ちになりさえすれば安心だと信じていたのでしょう。「わがたましいよ、これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ」とのことばからもそれが分かります。今でも、財産こそが自分に安心をもたらすのだと考えている人は多いでしょう。

しかし、本当にそうでしょうか。かえって、収穫物が腐るとか、盗まれるとか、そんな心配が生まれるのではないでしょうか。あるいは、これらの財産をだれに相続するかという心配もあったに違いありません。資産が多いなら幸せだとは決して言えないのです。確かにお金があればおいしい物を食べ、楽な生活はできます。しかし、たましいが安らぐわけではありません。

三、神に無関心だった

この農夫は、「わがたましいよ」と呼びかけているのに、肉体だけの楽しみを求めていたのです。たましいを自分で保つことはできないことを知っておくべきでした。神が「愚か者、おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる」と言われたのは、目に見える楽しみだけを求めてはならないからです。彼は、目に見えないたましいや神について全く知らない愚か者でした。

この農夫は、「自分のために蓄えても、神に対して富まない者」でした。「神に対して富む」とは、目に見える富に頼るのではなく、目に見えない神に頼ることです。自分の力で生きているのではなく、神の恵みによって生かされていると受けとめることです。肉体を楽しませることではなく、たましいを喜ばせることです。全てのことについて神に感謝することです。

毎日毎日、勤勉に働くことは大切です。でも、自分のいのちは神の手の中にあることを認め、謙遜に生きることはもっと大切です。自分や自分の家族を喜ばせるだけではなく、他の人々の喜びとなるような生活態度を身につけましょう。そのとき、愛と喜びと平安に満ちた日々をおくることができるのです。

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