「権威あることば」 マタイ28:1-10
ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。(6節)
イエス・キリストの復活は、それを目撃した多くの人々が命をかけて伝え続けた歴史的事実です。それはまた、私たち一人ひとりに与えられる永遠のいのちを保証する出来事です。しかし、最初の目撃者でさえ、この事実を受け入れることは困難でした。だからこそ、復活された主イエスは権威をもって次のように言われたのです。
一、恐れることはありません
男性の弟子たちは恐れて身を隠していましたが、女性たちは勇敢にも安息日の翌日早朝、主の体に香油を塗るため墓を訪れました。そのとき、主の使いが現れます。気丈夫な女性たちでも恐れました。しかし、御使いは彼らに「恐れることはない」と告げたのです。10節では主ご自身も同じように宣言されています。想定外のことがおこったら、だれでも恐れるのが普通だからです。
主イエスはすでに3度、ご自分の復活を予告しておられましたが(16:21,17:9,17:23)、彼女たちは全く忘れていました。想像もしたことがなかったからです。現在の私たちにも時として想定外の出来事がおこります。家族の病気や事故のとき、だれでも恐れるでしょう。途方にくれるでしょう。だからこそ聖書は何度も何度も、「恐れることはない」と私たちを励ましているのです。
二、わたしに会えます
御使いは主の復活を知らせた後、ガリラヤでお会いできることも伝えました。女性たちがこのことを伝えようと走り出したとき、主ご自身を現されたのです。さらに他の福音書は、復活されたその日の夕方、主はエルサレムでも弟子たちにお会いになったことを記しています。聞くだけでなく目で見ることによって、もっと確実に主の復活の証人となれるからです。
エルサレムは主が迫害された町でしたが、ガリラヤは多くの人々に受け入れられた地方でした。どちらの場所でも、主とお会いできるのです。今も全く同じです。苦難の時でも喜びの時でも、主は私たちに近づいてくださいます。たとえ肉眼の目で見ることはできなくても、聖霊が主イエスご自身を私たちに示してくださるのです。祈りのたびごとに主にお会いすることができるなら、どれほど力づけられることでしょうか。
三、喜びがあるように
主と御使いからのことばを聞いた女性たちは「恐ろしくはあったが大いに喜んで」弟子たちのところに向かいました。その時、主は彼女たちの前に現れて「おはよう(原語では「喜びがあるように」)と言われたのです。彼女たちはその場で主を礼拝しました。十字架の時には意気消沈していたのに、一転して喜びに満たされました。礼拝は、彼女たちの喜びの現れだったのです。
この時まで1500年近く、ユダヤ人は土曜日を安息日と定めて、この日に神を礼拝していました。しかし、主イエスの復活以来、礼拝の日を復活の日、日曜日に変更したのです。しかも、律法のことばを聞くだけでなく、ともにおられる主を喜び礼拝する日に変えました。この日には、主イエスが再臨されて肉眼の目でも主を見ることができるという希望を持って礼拝するのです。
イエス・キリストの復活は、世界史の中でただ一度だけおこった出来事です。だからこそ、目撃者たちは伝えました。その記録集が新約聖書です。聖書には、権威ある神のことばが記されています。そのことばを受け入れるなら、どんな困難があろうとも、それを乗り越えられるのです。