「十字架への応答」 マタイ27:27-38
彼らは(シモンという名の)この人に、イエスの十字架を無理やり背負わせた。(32節)
主イエスが十字架につけられたとき、周囲には多くの人々がいました。彼らはみな、主に対して異なった態度を示したことに注目しましょう。そのような違いはなぜおこり、また彼らの生涯にどのような影響を与えたのかを学んでみたいと思います。十字架に対してどのような応答をするかで人の歩みは変わってくるのです。
一、あざける人
ピラトのもとで有罪判決を受けた主は、ローマ軍の兵士の手に渡されました。彼らは主がどんな言動をしてこられたか、周囲にいた人々のうわさ話で知ったのでしょう。偽の王服を着せ、茨の冠をかぶらせ、王笏の代わりに葦の棒を持たせ、「ユダヤ人の王様、万歳」とあざけりました。王の系図で始めたマタイは、主が真の王であったことが誤解されたことを悲しんでいます。
今でもイエス・キリストを尊敬しないどころか、詐欺師の一人だと言う人もいます。主の言動を理解しようとしないのです。十字架につけられて死んだ人ということしか知らないなら、私たちも主を信じることはないでしょう。しかし教会では十字架を真正面にかかげています。十字架こそ私たち罪人が赦され、神の国に入るためにどうしても必要なものと知っているからです。
二、十字架を背負う人
死刑囚は、自分の架けられる木を背負って、刑場に歩いて行くのが当時の風習でした。前日から徹夜で裁判を受け、39回も鞭打たれていた主には、重い木を運ぶ体力はありませんでした。そこでたまたま通りかかったシモンという人に無理やりにその木を背負わせたのです。しかし、主の代わりに苦しんだ彼は、後に教会で尊敬されるようになり、名前も知られるようになりました。
シモンは無理やりに十字架をかつがせられたとき、自分の不運を嘆いたでしょう。罪人でない自分がなぜこんなことをせねばならないのかと。しかし、これがきっかけで彼は主イエスを救い主として受け入れたに違いありません。そうでなければその名前が残るはずはありませんから。十字架の意味が分かるなら、苦しみが感謝に変わるのです。私たちにも同じような経験があるのではないでしょうか。
三、主とともにいる人
主イエスの左右には二人の強盗が十字架につけられていました。ルカの福音書には、その内の一人が自分の罪を認め、「御国に入られるときには、私を思い出してください」と祈ったことが記されています(23:42)。たとえそれまで罪まみれの生涯を過ごしていたとしても、主の十字架は自分の罪のゆえでないことを知り、神の国に入ることを願い求めるだけで良かったのです。
主はその時、「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」と宣言されました。十字架で肉体の苦しみを味わっている最中に、「パラダイスにいる」とは、どういうことでしょうか。主イエスとともにいることです。主がおられるところがパラダイスなのです。今、私たちは様々な試練の中にいるかもしれません。でも主がご一緒なら、そこも神の国になることを知ってください。
十字架に対してどのような応答をするかで、私たちの信仰の姿は明確になります。十字架を恥とするのか、十字架を負うのか、十字架の主とともに歩むことを求めるのか。苦難はなくならないかもしれません。しかし、その苦難さえも感謝をもって受け入れることはできるのです。