「苦難の意義」 マタイ27:11-26
それでもイエスは、どのような訴えに対しても一言もお答えにならなかった。(14節)
地震などの自然災害によって多くの人々が苦難の生活を余儀なくされています。「神も仏もあるものか」と叫ぶ人々がいるのも当然でしょう。しかし、大多数の人々は、原因こそ異なりますが何らかの苦難を経験するものです。イエス・キリストの十字架刑の場合を通して、そのような苦難にも意義があることを学びましょう。
一、理不尽な苦難
主イエスが捕らえられ、裁判にかけられたのは、当時の宗教的権力者だった祭司長や長老たちのねたみのゆえでした。ローマ帝国の総督であったピラトも彼の妻もそれを理解していたので、無実の人を死刑にするような判決をしたくなかったのです。しかし、群衆の暴動を恐れて、主を無罪にはしませんでした。この裁判は理不尽なものであったことは誰にもわかります。
今、苦難の中にある人々の多くは、「なぜこんな苦しみを経験せねばならないのだろう」と考えていることでしょう。戦争に巻き込まれている人々も、不当な判決を受けた人々も、同じ疑問を抱いておられると思います。聖書に登場するヨブやナオミも同じような経験をしています。しかし神は、それらの苦しみが決して理不尽のままで終わるようにはされませんでした。
二、受容された苦難
しかし主イエスは、裁判官である総督に対して一言も語ることをなさいませんでした。自分を訴えている人々に対しても反論なさいませんでした。それは、この苦難を受けることが自分の使命だと受けとめられていたからです。旧約聖書に記されている「苦難のしもべ」が自分であると思っておられたからです。そのような生き方は、普通の人にはとうていできません。
「苦難にあいたくない」というのが私たちの本音でしょう。しかし、実際に理不尽な苦難にあったとき、それをもたらした災害や悪意ある人を恨んだとしても解決できるわけではありません。時にはその苦難の中で、思いがけない人から励ましを受けたり、支えてもらったりすることがあることも事実です。苦難を受容することによって、どれほど多くの恵みを受けていたかに気づく場合もあるのではないでしょうか。
三、身代わりの苦難
ピラトはキリストを赦してやりたいと願い、恩赦の提案をしました。バラバという誰が考えても死刑にふさわしい人物と主イエスを並べるなら、当然、主が恩赦にあずかるとピラトは考えたのです。しかし、扇動されていた群衆はバラバのほうを赦し、主を十字架につけるようにと叫びました。主が、バラバの身代わりになって十字架につけられたと考えることもできます。
実は、この身代わりの苦難こそ、神が人間にもたらされた福音なのです。罪ある人のために、身代わりとなって苦難を受けることこそ、人の生き方を変える力をもつことを知ってください。罪びとを救うために、神の子が理不尽な苦難を受けたことを知った人の心に、神の愛が届くのです。そして愛を受け取るばかりでなく、他の人々を愛することもできるようになります。
神に背いている人々をも神は愛しておられる。その人を救いたいと願っておられる。そのために御子を犠牲にされたという真理こそ、聖書の中心的メッセージです。これを自分のこととして受け入れた人は、苦難をも喜ぶことができます。だれかの身代わりになれるからです。