2024.3.10メッセージ内容

「ゲツセマネの祈り」 マタイ26:36-46

しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。(39節)

最後の晩餐の後、主イエスは弟子たちと共に、ゲツセマネという場所に行かれました。オリーブの木が何本も植えられている果樹園です。そこで主は、ご自分が神の子であるゆえ、「わが父よ」と父なる神に呼びかけられ、もだえながら祈られました。なぜなのでしょうか。それは主が次のような3つの戦いをなされていたからです。

一、感情との戦い

一人の人間として生きておられたので、主は私たちと同じように悲しみや苦しみの感情を持たれていました。ペテロとヤコブとヨハネをご自分の近くにおき、「悲しみのあまり死ぬほどです」と言って、目を覚ましているよう願われたのです。これは、主イエスが全く私たちと同じ人間として感情を持っておられたことの証拠です。だからこそ、私たちの感情も理解してくださいます。

現在の私たちにも様々な感情があります。悲しさ、苦しさ、寂しさ、つらさ等、どうしようもない時を経験します。その時に、その感情を理解し、一緒に祈ってくれる人がいたなら、どんなに幸いでしょうか。弟子たちは主の感情を理解することができず、眠ってしまいましたが、主はそういう方ではありません。私たちの感情をそのまま受け入れ、その感情を共有してくださるのです。

二、肉体との戦い

主は肉体をもっておられたゆえ、肉体の限界もご存じでした。疲れている弟子たちが眠っている姿を見ても叱責なさらず、「霊は燃えていても肉は弱いのです」と言われました。弟子たちも反省したでしょうが、もう2回、同じように眠ってしまいました。主イエスが「この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈られたのも、十字架による肉体の苦しみをご存じだったからです。

私たちも肉体をもっている以上、様々な誘惑に陥ることがあります。過去に、お祈りが「おいねり」になってしまった時もあったでしょう。しかし気落ちしないでください。主はその弱さもご存じです。その上で、「祈っていなさい」と励まされるのです。例えば、自分や家族が病気になったとき、祈らないではおれなくなります。試練があるゆえに、肉体の限界を越えて祈り求めるでしょう。主はそのような戦いをしておられました。

三、自我との戦い

主はその苦しみをご存じの上で、「わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください」と祈られました。自分の望み(自我)ではなく、父なる神の望みが実現するようにと。永遠の昔から神は、人間の罪を解決するためには、だれかが罪人の身代わりにならねばならないことをご存じで、そのために御子を遣わされたのです。これが神のご計画でした。

多くの人々は自分の望みや自分の計画が実現することを求めます。その実現のためには、他の人々を犠牲にする場合もあるかもしれません。しかし主は、全く逆でした。神のご計画を進めるためにご自分のいのちを犠牲にされたのです。この犠牲がなければ、罪人はだれも神の国に入ることはできません。主が自我との戦いに勝利されたからこそ、人の救いは実現したのです。

私たちにも自分の願いがあり、それが実現することを祈り求めます。でも、主の願いはどうかと考えたことはあるでしょうか。自分の弱さを隠す必要はありませんが、神の願いが少しでも分かるなら、それにそって生きる決断ができるのではないでしょうか。

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