2024.3.3メッセージ内容

「最後の晩餐」 マタイ26:20-30

これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。(28節)

レオナルド・ダ・ヴィンチの絵で有名な最後の晩餐は、食事という日常の生活に主イエスが深く関わっておられることを暗示する重要な個所です。これは、現在の聖餐式においても実際に経験することができます。ヨハネ福音書13章で記されている12弟子の足を洗われた主は、その後、以下の3つの重要な真理を教えられました。

一、裏切る者も共に

この席に、主を裏切ろうとしていたユダがいたことを忘れてはなりません。それをご存じの上で、主はユダの足を洗い、彼と共に食事をなされたのです。一塊のパンを割いて取ったものを鉢に入ったぶどう主に浸し、それを食べるのが当時の習慣だったのですが、主イエスはユダのすぐそばにいて同じ鉢にパン切れを浸されました。この時にユダが悔い改めていたなら、と思います。

現在の聖餐式には、主を信じた者なら誰でも参加できます。「私は罪深いから与れない」という必要はありません。罪深いからこそ、この席に招かれたのです。罪人を招いておられる主に、ありのままの自分をさらけ出しましょう。そして、「主よ、罪人の私を憐れんでください」と祈りましょう。そのような謙遜な態度をもつことが、聖餐式に最もふさわしいのです。

二、パンは主のからだ

主イエスは、肉眼では見えない全能の神がどういうお方かを、地上に住む人々に知らせるために誕生され、人としての肉体をもたれました。これを「受肉」と言います。主はその肉体を象徴するパン切れを取って「これはわたしのからだです」と言われました。神が人となられたことを知り、このパン切れを食べることによって、神が自分の内におられることを経験できるのです。

聖餐式で配られるパンは人が作ったものであり、それ自体に特別な力があるわけではありません。しかし、それが「主イエスのからだ」と信じることによって、私たちは「神の宮」となります。神の臨在の場となるのです。主がこのことをなさる前に、「神をほめたたえ」られたことを忘れないでください。この信仰によって歩むなら、こんな罪深い私たちでも変えられます。このパンは、永遠のいのちを与えるからです。

三、ぶどう酒は契約の血

「過越の食事」とは、出エジプト記12章に記されている出来事です。神を認めようとしないエジプト王の手からイスラエルの民を救い出すため、1歳の子羊がほふられその血が家の戸口に塗られました。その血をみて、裁きをなす御使いはその家を過ぎ越すと、神は約束されたのです。血は救いの印でした。ぶどう酒はこの出来事を思い起こさせるために用いられています。

主イエスがこの後に十字架上で流された血は、子羊の血よりはるかに貴いものです。罪の赦しを明確に宣言するからです。神の子とされた者は父なる神と親しい交わりをもつことができます。そして、私たちの肉体の命が終わった後、あるいは主の再臨の後、私たちは神の国でこの晩餐に与ることができます。この契約を思い出して、ぶどう酒をいただけることは幸いです。

最後の晩餐は、決して「最後」ではありません。主イエスと共に食事をするという大きな希望が私たちに与えられています。この希望をもつ者は死を恐れる必要はありません。かえって、試練の中でも十字架を負って、主と共に生きることができるのです。何と嬉しいことでしょうか。

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