2024.2.4メッセージ内容

「土台を築く」 マタイ7:24-29

家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。(25節)

「山上の垂訓」は、家を建築するときの土台がどれほど大切かを教える譬話で完結しています。主イエスは長く大工として働いておられたゆえに土台の大切さを熟知しておられました。各地でおこっている地震の報道を見ても、土台が強固かどうかが問われています。主は、この真理を信仰生活に適用されているのです。

一、土台とは何か

私たちの信仰生活の土台とは何でしょうか。それはキリストご自身だとパウロは明確に記しています(Ⅰコリント3:11)。主イエスもシモンにペテロ(ギリシア語では岩という意味)という名を与え、「この岩の上にわたしの教会を建てます」と宣言されました(マタイ16:18)。つまり、教会員の信仰生活は、主イエスとの人格的な交わりの上に築き上げられるという真理が示されているのです。「ことばを聞いて、それを行う者」とは、主との交わりを常に持つ人だと知ってください。

私たちは、「クリスチャンだったら、多くの良いことを行わなくてはならない」と思って努力します。でも、それができなかったということで落ち込む経験をした方も多いのではないでしょうか。良い行いは建物であって、土台ではありません。まず、主イエスとの親しい交わりという土台を据えることが何より重要なのです。

二、岩を土台とする人

私たちの人生には、雨が降って洪水が押し寄せる時もあり、風が吹いて建物が揺れる時もあります。実際には自然災害にあっていないとしても、人間関係や経済生活において、このような試練にあうことは時々あります。主はそのことを十分ご存じなのです。私たちと同じ人間として誕生されたのはそのためです。このお方が常に共にいてくださるという信仰をもちましょう。

辺野古の空港建設でもビルの建築でも、地を深く掘って岩盤にまで杭を打ち込む大変な工事をしなくてはなりません。多くの費用もかかるでしょうが、それが建物を支えるのです。主との交わりも全く同じです。毎日毎日、聖書を読んで主のことばを聴き、祈りによって正直に苦難や悩みを打ちあけ、願いを申し上げるという地道な実践こそが私たちの信仰生活を支えます。

三、砂を土台とする人

それと対照的に土台が砂であるなら、簡単に建築できたとしても、試練がおそってくる時には簡単に倒れてしまいます。しかもその倒れ方はひどいものとなるのです。土台を堅く据えるためには費用も時間もかかるように、主と共に生きるということも、簡単にできるわけではありません。毎日毎日、聖書を読み祈りの時をもつことは、それなりの努力が必要です。

しかし、それを抜きにしてはなりません。自分の将来に不安な人は、占いやおみくじに頼る傾向があります。簡単に結論を得ようとするのです。しかし、それは砂の上の建物であり、経済状況や自分の健康状態が悪化するなら、望みを失ってしまいます。私たちの人生の土台が財産や人間関係のみだとするなら、それは砂のようなものだということを知りましょう。

「山上の垂訓」は、天の御国がどのようなものかを示しています。それは、この地上に神の御子イエスがおいでになり、この方と自由に交わることができるようになったことです。この方を土台にすえるなら、人には不可能と思えることが実際にできるようになること悟ってください。

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