2024.1.14メッセージ内容

「地の塩・世の光」 マタイ5:13-16

あなたがたは地の塩です。
あなたがたは世の光です。(13-14節)

「山上の垂訓」で、主は天の御国には地上の国とは全く違った原則があることを教えられようとしました。でも群衆の大半は、生きていくだけで精一杯の人々でした。彼らに天の御国の真理を示すために、主は様々な譬えを用いられました。その最初に挙げられているのが塩と光です。主の説明に耳を傾けてみましょう。

一、理解してもらうために

旧約聖書の時代、多くの預言者が神のみ旨を人々に伝えるために神から遣わされました。けれど彼らは理解されなかっただけでなく、かえって迫害を受けたのです。その状況は、主イエスの時代でも同じでした。貧しい者や悲しむ者が幸いなどということは、一般大衆には理解不能だったと思われます。主は、そんな彼らが日常的に経験している事柄を用いて説明されました。

例えば音楽界のバッハや、美術界のゴッホは、当時の人々には理解されませんでした。しかし、何十年か後、多くの人がその素晴らしさに気づいたのです。主イエスもそうでした。主を理解する人々もいたのですが、特にその時代の宗教的権威者はそれを理解しようとはせず、かえって反感をもち十字架につけました。私たちは、彼らのようになってはなりません。

二、地の塩として生きる

塩は少量でも大きな効果をもたらします。それ自体は消えてなくなるように思えますが、周囲に味をつけるのです。天の御国の原則に生きる人は、たとえ少数で肉眼では見えなくなっても、周囲に良い影響を与えます。また、塩は腐敗を防ぐ働きもします。預言者たちが主のみ旨に反する生き方をしている人々に厳しい言葉を発したのも、まさに腐敗を防ぐためでした。

現在の日本では、クリスチャン人口は1パーセントにもなっていません。日本社会に何の影響も与えていないように思われています。しかし多くの福祉事業は、クリスチャンによって始められたことを忘れないでください。廃娼運動、女性教育、孤児院、老人施設、ホスピスなど、多くの例があります。多くの犠牲を払って、底辺に生きる人々を支え続けてきたのです。

三、世の光として歩む

塩とは対照的に、光は自らの存在を明確に周囲に現します。山の上にある町のように、人々の歩む道に方向付けをするのです。人々の模範となるだけでなく、人が心の底に隠している罪に気づくよう、その心を照らします。暗闇に歩んでいる人々に希望の光を与えるのです。しかもそれは、自分の立派さを示すためではなく、天におられる父があがめられるためにほかなりません。

私にはそれをする力がない、と言う人が大多数でしょう。しかし、光の源はイエスご自身であることを知ってください。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、…いのちの光を持ちます」と主は言われました(ヨハネ8:12)。主が太陽であり、私たちは月です。太陽の光が強ければ強いほど、こんな小さな罪深い私たちでも、「世の光」になることができます。

地の塩タイプの人も、世の光タイプの人もいるでしょうし、半分半分の場合もあるでしょう。どれも容易ではありません。しかし、そのようになりたいと願って、主に拠り頼みながら日々の生活をおくるなら、きっと主はそのことを実現させてくださいます。それこそが、主を信頼して生きる者の希望ではないでしょうか。

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