「マリアへの告知」 ルカ1:26-38
私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。(38節)
ダビンチはじめ、多くの有名な画家によって描かれている「受胎告知」のシーンは、ザカリヤへの御使いの現れと比較すると、さらに興味深くなります。実際に御使いと出会ったという人は極めて少数でしょうが、御使いが伝えた内容には、現在の私たちにもあてはまる大切な真理が含まれています。3つ挙げてみましょう。
一、主の臨在の確認
ザカリヤに現れた御使いガブリエルは、約半年後に、田舎の村ナザレに住む十代の娘マリアの家に「入って来」ました。神殿で奉仕していた祭司ザカリヤと大きな違いがあります。御使いが、「主があなたとともにおられます」と宣言した点も違います。年齢や経験の差にかかわらず、主はその臨在を明らかにしてくださるのです。大切なのは、その臨在にどう対応するかでしょう。
御使いは同じように「恐れることはありません」と言っています。御使いの出現は確かに驚くべきことでしょうが、それは主の恵みを示すためだったのです。現代においては、御使いではなく、書かれたことば、聖書によって主の恵みは示されることを知ってください。どんな年齢でも、どんな信仰経験があっても、聖書を真剣に読むなら、そこで主にお会いすることができます。
二、主の計画の確認
御使いはマリアに驚くべきことを告知します。救い主の誕生は、罪を繰り返す神の民をご自分のもとに連れ戻そうとする神の計画でした。しかしマリアは、まだ結婚していない自分が出産するとはとても思えません。ザカリヤと同じように、彼女も不信仰でしたが、エリサベツのことを聞いたときに、マリアは決断したのです。主の計画を信頼して、すべてを委ねようと。
主は、アダムとエバが罪を犯したときから、イスラエルの民だけでなく、全人類の救いの計画をお持ちでした。人自分の知性で、見えない神を理解することは難しいです。「顔のある神」として、人の生活の現場に生きられてこそ、神の愛と恵みがわかります。かくして、「時が満ちて、神はご自分の御子を女から生まれた者」として、この地上に遣わされたのです(ガラテヤ4:4)。
三、人の意志の確認
マリアは神の計画の全てを理解していたのではないでしょう。しかし、彼女は「神にとって不可能なことは何もありません」という御使いのことばを信頼しました。それが「私は主のはしため(召使いという意味)」という一言に凝縮されています。御使いがマリアに現れたのは、彼女が自分の意志でこう告白するためだったのです。
今でも主は、私たちの意志を尊重されます。聖書を読んでも、そこに示された主の御心に従うかどうかは、私たちの自由意志にまかされています。神の計画が実現するかどうかは、それに従う人がいるかどうかで決定されることを忘れないでください。「あなたのおことばどおり、この身になりますように」と応答する人がいたゆえに、神の救いのわざがなされたのです。
今も世界には争いが満ちています。尊い命が失われています。主がこのような状況を許しておられるのはなぜか分かりません。でも、主の計画はどのようなものか知らなくても、主が用いようとなさるなら、「おことばどおり、この身になりますように」と告白できる者でありたいです。私たちの周囲の人々に神の恵みを分かち合うために、何ができるかを考えてみましょう。