「信仰の本質」 ルカ7:1-10
ただ、おことばを下さい。そうして私のしもべを癒やしてください。(7節)
信仰の本質は、イエス・キリストに信頼することであり、それはだれにでもあてはまる真理です。2千年前、イスラエルの国はローマ帝国に占領されており、多くのローマ兵がこの国に住んでいました。その一人である百人隊長は、神の選びの民であるイスラエルの人々よりも明確に、信仰とはどういうものかを理解していたのです。
一、自分の無能を知る
重病にかかっていたしもべをもつこの百人隊長は、なんとか彼が治るように願っていましたが、当時の医学では無理でした。でも、主イエスが多くの病人を癒やしておられることを聞いて、自分が知っているユダヤ人の長老を主のもとに送りました。自分は異邦人なので、主に癒やしていただく資格がないと思っていたからです。しかし長老たちは主に、「彼には癒やしていただく資格がある」と申し上げました。
自分に何かの資格や値打ちがあると思うなら、本当の信仰をもつことはできません。逆に、自分の力のなさや罪の深さを知っている者は、主イエスに頼ろうとします。この百人隊長は、主を自分の家に迎える資格さえないことを伝えています。自分の無能や罪深さを自覚している人こそ、謙遜になって主を信頼できるのです。今でもこの原則は変わりません。
二、神の大能を知る
百人隊長が、「ただ、おことばを下さい」と言ったのは、ことばの権威を知っていたからです。彼は隊長でしたから、部下たちは自分の命令に従順に従うことを知っていました。彼は、主が自分のしもべの上に手を置いたり、聖なる水をかけたりすることを望んではいませんでした。主なら、ただことばによって病を癒やすことができると信じていたのです。主は人間にできないことをなさる大能の方だと信頼していました。
私たちは、聖書の中で主イエスがなされた多くの奇跡を見ます。もしそれらを否定するなら、主に対する信仰は生まれません。そのような力を持たれるのは、主が神から遣わされた方であると認めて信頼することが重要なのです。私たちもこのような信頼をもっているでしょうか。主のことばは今でも働くのです。
三、主イエスに寄り頼む
主は、「イスラエルのうちでも、これほどの信仰を見たことがありません」と驚かれました。たとえ選民でない異邦人であっても、主をそれほど信頼することができるのです。この百人隊長は、神についての知識はユダヤ人よりはるかに少なかったでしょう。しかし、主イエスを信頼する程度はユダヤ人よりも大きなものでした。彼のしもべは直ちに癒やされたのです。
主イエスに対して、私たちも同じような信頼をもっているでしょうか。自分が立派なクリスチャンではないからこそ、「主よ、助けてください。こんな弱い自分と共にいてください」と祈っているでしょうか。主を信頼していないなら、そんな失礼な祈りはできないと思うかもしれません。でも主が望んでおられるのは、そのような謙遜さであり、主に対する信頼です。
主イエスは今も生きておられます。何でも主の前に申し上げたら良いのです。それが祈りです。「絶えず祈りなさい」とはそういうことです。今、悲しみも喜びも、苦しみも楽しみも、そのまま主イエスに訴えましょう。主は、権威あることばで求めに応えてくださいます。