2023.11.05メッセージ内容

「安息日の意義」 マタイ12:1-8

「わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない」とはどういう意味か・・・。(7節)

「安息日を覚えて、これを聖とせよ」とは十戒の第四戒で、ユダヤ人は今でもこれを厳守しています。主イエスの時代はもっと詳細な規定があり、食事の手段さえ制限されていました。しかし主イエスは、律法遵守を叫ぶパリサイ派の人々に対して、律法の本当の意義を示すために旧約聖書に書かれている3つの事例を示されたのです。

一、人の必要を重んじる

パリサイ人たちは主の弟子たちのあとをつけ、彼らが麦畑の穂を摘んで食べる現場を見て非難しました。でもこれは、貧しい人の必要を満たすため、律法によって認められていることでした(申命記23:25)。パリサイ人が非難したのは、彼らが安息日にそれをしたからです。しかし主は、ダビデも聖なるパンを食べたことを引用し(Ⅰサムエル21:1-6)、それは律法違反でないことを説かれました。神は人を苦しめるためではなく、守るために律法を与えられたのです。

安息日に食事をすることは決して否定されてはいません。主を礼拝する妨げになるような行動をすることが戒められたのです。現代でも消防署や警察は一日も休みません。その必要があるからです。しかし、日曜日には儲かると考え、主を礼拝せずに商売をすることは、主の御心でないことは明らかでしょう。安息日を聖とするとは、主との繋がりを強めることなのです。

二、神への奉仕を重んじる

続いて主イエスは、祭司たちは安息日にも宮の奉仕をしていることを示されました。いけにえの供え物をささげることは確かに労働です。しかしそれは自分のための仕事ではなく、神に仕えるための働きでした。天地を創造し、毎日私たちを守ってくださっている真の神に仕える行動は、安息日でも重んじられるべきでしょう。それこそ安息日の意義なのです。

「宮よりも大いなるもの」とは、主イエスご自身を指しています。そのお方が喜んでくださることを安息日にすることは、禁止するどころか奨励されるべきことです。教会の掃除をする、トラクト配布をする、病人を訪問する、などのことは主に仕える行動であり、重んじられるべきことでした。重要なのは、私たちの行動の目的は何かを考え、主に喜んでいただきたいと願う心です。

三、真実の愛を重んじる

「わたしが喜びとするのは真実の愛」という句はホセア6:6からの引用で、マタイが弟子として召されたときにも、主はパリサイ人に対して言われました。罪の贖いとしていけにえを献げることを神は望んでおられるのではない、真実の愛をもって神と人を愛することを望んでおられるのだと、律法の意義を明確にされたのです。律法の根本には愛が流れています。

6日間の労働の疲れを癒やし、新しい力を得るために安息日は制定されました。肉体が癒やされるだけではなく、この日に静かに神と交わり、魂に安らぎが与えられるのです。律法はすべて、人間が本当に幸せになるために定められました。律法を破った時にいけにえを献げることも大切ですが、律法を守って真実に愛し合うことこそ、主が第一に望まれていることです。

安息日は人を束縛する日ではありません。神の愛に心から感謝し、私たちも愛を分かち合う日なのです。天地を創造された主は、安息日も休むことなく私たちを守ってくださっています。主イエスもまた、私たちと共に歩んでおられます。

目次