「罪人だからこそ」 マタイ9:9-13
わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。(13節)
主イエスの最初の弟子たちはペテロなど漁師でした。彼らは労働者階級でしたが、それと対照的な人物も弟子に召されました。それが取税人マタイです。彼はローマ政府に仕えるエリートであり、ギリシャ語もできたのですが、ユダヤの民衆からは嫌われていました。ローマ人の手先になって同胞から搾取していたからです。
一、招かれる
マタイは、街角で通行税を取り立てていました。その場を通りかかられた主イエスからいきなり、「わたしについて来なさい」と言われたとき、彼はどれほど驚いたことでしょうか。彼自身、このような仕事をするのは嫌だったからかもしれませんが、彼はすぐさま主に従っていったのです。主の教えを聴いたことがあって、ひそかに主を尊敬していた可能性もあります。
重要なのは、彼は自分が罪人であることを自覚していたことです。主がそんな自分に声をかけてくださったことが嬉しかったのです。今までとは違った生き方に踏み出してみたいと思ったのではないでしょうか。もし彼が金儲けにだけ興味がある人であったとしたら、こんな決心をするはずがありません。あえて罪人に声をかけて招かれた方に人生を賭けてみたのです。
二、共に食される
マタイは嬉しくてたまりません。そこで、すぐに友人たちを呼んで、晩餐会を開きました。もちろん主イエスが主賓です。でもこのことを快く思わない人たちがいました。パリサイ人は律法を守ることを強調していたからです。取税人やその仲間たちと席を共にするなら、自分も汚れると考えていたのです。彼らは「なぜこんなことをするのか」と主に詰め寄りました。
「朱に交われば赤くなる」ということわざがあります。確かに悪い影響を与える人もたくさんいるでしょう。しかし主は、誰かに影響される方ではなく、共にいる人に良い影響を与え、きよくなさるのです。先のことわざをもじるなら、「主と交わればきよくなる」と言えるでしょう。だからこそ、当時、人々からのけ者にされていた人々の中にあえて入っていかれました。今も、私たち罪人と共に過ごすことを望んでおられます。
三、癒やされる
病人が医者を必要としているように、罪人だからこそ主イエスが必要なのです。恐ろしいのは、自分が病人なのに健康だと思っている人です。そういう人は、自分が人より優秀だし、人より正しいと思い込んで、人を裁いてしまうからです。主は、罪人に自分の罪を悟らせるだけでなく、その罪を赦し、正しく歩む者へと造り変えてくださいます。それが主の癒しのわざです。
私たちも自分が罪人であることを自覚せねばなりません。罪人だからこそ、主に祈り求めて、きよい主と過ごすことを願うのです。聖書を読み、主イエスを身近に感じるのです。そのためには時間が必要です。少なくとも一日10分は、聖書を読み祈る時間をもちましょう。聖書に書かれているように歩めないなら、その実情を素直に告白しましょう。その交わりが大切なのです。
私たちはみな、キリストの弟子に召されていることを忘れてはなりません。職業や家庭を捨てなくても、主の弟子になることはできます。「驚くばかりの恵みなりき。この身の汚れを知れるわれに」という聖歌のごとく、罪の深さが分かる者こそ、恵みの大きさも分かるのです。