「選ばれた者の使命」 創世記18:16-26
正しい者を50人、町の中に見つけたら、その人たちのゆえにその町のすべてを赦そう。(26節)
アブラハムは、全世界の人々の「祝福の源」となるために、主なる神によって選ばれました。その後の彼の歩みを見るなら、それがあちこちで示唆されています。本日の箇所には、罪に満ちた町ソドムに住む甥ロトを救うために、アブラハムが必死に祈ったことが記されています。それはまさに、神に選ばれた者の使命でした。
一、神の祝福を示す
アブラハムとロトは一緒に生活していたのですが、放牧している家畜が増えたために、別々に住むことになりました。ロトは当時繁栄していたソドムの町を選びます。ところがこの町が悪に満ちていたため、御使いがアブラハムのところに遣わされたのです。主はご自分の計画を彼に知らせるためにそうなさいました。神のみ旨を知ることなしに祝福はあり得ないからです。
祝福とは、物質的なものだけではありません。最大の祝福は、何でも主と話し合えることです。アブラハムを信頼された主は、彼にソドムの町の状況を伝えられました。彼もまた、自分の願うところを御使いに申し上げました。このような関係をもてることを聖書は明確に証言しています。現代の私たちが、このような関係を持っているとするなら、それは何にもまさる祝福です。
二、神の正義を伝える
祝福は、「主の道を守り、正義と公正を行うようになる」ことによって与えられます。しかし、このソドムの町は正反対の生き方をしていました。それでも主は直ちに裁くことをされないで、アブラハムに語られたのです。彼は大胆に御使いに尋ねます。「正しい者を悪い者とともに滅ぼし尽くされるのですか」と。正義の神ならそのようなことをなさるはずはないからです。
神の正義は、人間の正義よりも公正であることは明らかでしょう。神は、人間の隠れたところまでご覧になられるし、裁きの基準も揺らぐことはありません。神がソドムの町に住む「正しい者」を滅ぼされないよう、アブラハムは必死の執り成しをします。当時のソドムの町に5千人の人がいたとしても、その1パーセントの正しい人のために、その町全体を滅ぼさないと主は言われました。それが神の「正義」なのです。
三、神の救いを祈る
アブラハムがこのように祈ったのは、ソドムの町に住んでいたロトとその一家を救いたいと願っていたからでしょう。それで50人から10人にまで正しい人の数を減らしていきました。でも実際は10人もいなかったのです。次の章を読めば、ロトでさえ正しい人と言うことはできません。それでも、アブラハムは必死に祈りました。彼にとってロトは、数少ない身内だったからです。
現在の私たちはどうでしょうか。私たち自身も罪びとですが、神の御子イエスの贖いのゆえに、滅ぼされないでいます。同様に、自分の家族やこの日本の国、いや世界に住む何億という人々が滅びないで救われることは主のみ旨です。私たちの小さな祈りが、実は家族や世界を救うために用いられていることを忘れてはなりません。このような祈りこそが祝福の表れなのです。
アブラハムのように歩むか。それともロトのようになるか。それは、私たちが神に選ばれた者であることを自覚し、他の人々の救いのため祈る使命があることを知っているかどうかにかかっています。選ばれた者として、大胆に執り成しの祈りをする者となろうではありませんか。