「神の子のしるし」 ヨハネ2:1-11
イエスはこれを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。(11節)
主イエスは私たちと同じ肉体をもっておられましたが、真の神であったことを忘れてはなりません。ヨハネ福音書はこのことを強調し、奇跡という表現ではなく、「しるし」という用語を用いています。この福音書に記されている7つの奇跡は主イエスが神の子であるしるしであり、そのしるしは以下のような時に示されるのです。
一、人の力が尽きた時
母マリアの親しい人の結婚式だったのでしょう。主は弟子たちと共にその結婚式に招かれました。ところが披露宴の最中に、大切なぶどう酒がなくなってしまいました。時は夜中で、買いに行くこともできません。マリアは主に事情を話しますが、主は冷たい返事をされたように見えます。それは、人の力ではどうすることもできない時があることを弟子たちに示すためでした。
私たちの生涯にも、自分の力でどうすることもできないような時があります。経済的な問題だけでなく、家族の問題、自分の性格の問題、あるいは罪の問題など、様々な困難を経験した方も多いでしょう。それは、自分の力の限界を知るためなのです。でもそのような時にこそ、私たちは主に拠り頼むことができます。ピンチの時こそ、神の力が示される時だと知ってください。
二、人が主に従った時
マリアは給仕の者たちに、「あの方が言われることは、何でもしてください」と頼みます。そこで彼らは、遠く離れた共同井戸まで何度も往復し、100リットルも入る大きな6つのかめに水を満たしました。ぶどう酒が必要な時に水を運ぶという馬鹿げたことをさせられて怒ったとしても不思議ではありません。しかし彼らは、主のことばに素直に従ったのです。
主イエスは、神の子としてのしるしを実際に示されました。でもそのために、人を用いられたのです。給仕係は、水を運ぶという重労働をしたのですが、その水がぶどう酒に変えられたことを目の前で見ることができました。宴会の世話役の知らなかったことを知ることができたのです。現在の私たちも、「なぜこんなことをせねばならないのか」と思うような時もあるでしょう。しかし、そんな時に主は奇跡を行われます。
三、主の栄光が示される時
給仕の者たちが苦労して運んできた水が、それまで用意されていたぶどう酒よりはるかに上質のものに変化していったプロセスは、私たちにはわかりません。世話役がいう通り、良いぶどう酒を先に出すのが世間のやり方です。しかし、主イエスがなされることは正反対で、あとになるほど良いことを経験させてくださいます。人ではなく神の栄光、神の素晴らしさが現されるのです。
水がめは、ユダヤ人の「きよめのしきたり」のゆえにここに置かれていました。汚れた手や足をあらうための水です。しかし主は、外側をきれいにするものではなく、内側を喜びに満たすものを与えてくださいました。主イエスは、旧約聖書では神の怒りの象徴であった「怒りの杯」を十字架の上で飲み干され、私たちに祝福を与える「恵みの杯」に変えられたのです。
「しるし」は奇跡以上のものです。水がぶどう酒に変わることは確かに奇跡ですが、その現象だけに驚いてはなりません。人の悪い心が良き心へと変えられ、苦労が喜びに、不平が感謝に変えられることのほうがもっと重要です。主は神の子だからこそ、そのことを実現してくださいます。