2023.07.23メッセージ内容

「弟子となった人」 ヨハネ1:35-45

自分の兄弟シモンを見つけて、「私たちはメシア(訳すと、キリスト)に会った」と言った。(41節)

主イエスが福音を宣べ伝えられるために最初になされたのは、弟子を召されたことでした。本日の箇所には、ヨハネ・アンデレ・ペテロ・ピリポ・ナタナエルの5名が記されています。彼らと主イエスの会話の中から、弟子とはどのような人物であるかを知ることができます。これは現代にもそのまま当てはまることでしょう。

一、救い主を求める

アンデレとヨハネは、もともとバプテスマのヨハネの弟子でした。しかし、彼らが尊敬するその師が主イエスのことを「神の子羊」と言うのを聞いて、主について行くのでした。主は彼らに、「あなたがたは何を求めているのですか」と尋ねます。彼らの答えはここには記されていませんが、「神の子羊」という言葉に、旧約聖書の底流である罪の赦しを求めていた可能性はあります(29節)。

その後の彼らの行動を見るなら、この時点で彼らが主イエスの使命を十分理解していたとは思われません。しかし、求めていたことは事実です。「私たちはメシア(訳すとキリスト)に会った」との彼らの言葉には、長く求めていたものを発見した喜びを感じられます。私たちも、自分の罪の深さを知れば知るほど、その罪が赦されることを知った喜びは深まります。

二、救い主に従う

彼らは、最初は主に「ついて行った」だけなのですが、その後、主の泊まっておられるところに一晩、とどまりました。その時に、主からいろんな話を聞いたことでしょう。その結果、彼らは自分の意志で、喜んで主に従う弟子となることを決意したのです。ついて行くだけなら軽い気持ちで良いでしょうが、従うためには今までの生き方を変える必要があるのです。

これ以降、主は多くの群衆に神の国の福音を語られました。群衆は自分の生活を続けるために働かねばなりません。しかし弟子たちは、常に主のあとに従って行ったのです。毎日、主のことばを聞き、その行動から学んだのです。現代の私たちにも仕事があるので、弟子たちのように歩むことはできないでしょう。しかし、主イエスのことばと行動を思い起こすことはできます。それに従うことはできます。それが弟子の生き方です。

三、救い主を伝える

アンデレは、早速、自分の兄であるシモン・ペテロを見つけて、メシアに会ったことを伝えました(ちなみに、メシアという語が用いられているのは福音書の中でこの箇所だけです)。また、主から直接声をかけられたピリポも、友人のナタナエルを見つけ、旧約聖書の預言していたお方に会ったことを伝えました。弟子となった者は、自分の発見したことを伝えずにはおれないのです。

アンデレは、パンと魚をもつ子どもを主のもとに連れてきたり(6章)、ギリシア人を主に紹介したり(12章)しています。彼はペテロほど有名ではありませんが、主イエスのことを心から愛して、この方を伝えたいとの思いを常にもっていた弟子でした。私たちはどうでしょうか。主イエスを救い主と信頼する弟子は、主のことをだれかに伝えないわけにはいかないのです。

「キリストを信じましょう」と大胆に伝道できる人はそう多くはいません。しかし主のもとに、そして教会に、自分の家族や友人を連れてくることはそれほど難しいことではないでしょう。主が私たちに与えてくださった恵みを、喜びをもって、周囲のだれかに伝えようではありませんか。

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