「ささげる心」 創世記4:1-8
罪はあなたを恋い慕うが、あなたはそれを治めなければならない。(7節)
罪をおかしたアダムとエバにも、神は約束どおりに新しい命を与えて下さり、カインとアベルという二人の息子が生まれました。二人とも、エデンの園からの追放の理由を聞いていたことでしょう。でもカインは、両親が神との交わりを失った事実を知りながら、同じような罪を犯したのです。神は、二人の心の中をご存じでした。
一、感謝なのか
アダムは、神のおおせられたとおり、顔に汗して糧を得ていました。長男カインはその仕事を助けていました。でも弟のアベルは、野生の羊を家畜にするという新しい仕事を始めたのです。二人とも、親の教えたとおりに収穫物を神にささげたのですが、アベルは「羊の初子の中から、肥えたもの」を持って来ました。感謝の心が大きかったので、その気持ちを表したかったのでしょう。
聖書は、神へのささげ物についてあちこちで述べています。現代でも、教会の礼拝では必ず献金があります。それは会費でも運営費でもありません。神への感謝を表す方法なのです。ですから、額の多少ではなく、神の恵みに対する心からの感謝こそが動機になります。神が私たちに与えてくださったものの一部を、喜びの心をもってささげることが何より大切なのです。
二、義務なのか
しかし、カインのささげ物については、「大地の実り」としか書かれていません。親から教えられたとおりにささげたのでしょうが、カインは義務だと思っていたのでしょう。義務感でささげ物をすることは、神に喜ばれることではないのです。だから聖書は「カインとそのささげ物に目を留められなかった」と厳しく記しています。神は心の中をご存じの方だからです。
アダムとエバは、神のことばに従わなかったゆえに神との交わりを失いました。カインの場合も神が心の中をご存じだとは思わなかったので、このようなささげ方をしたのでしょう。現代の私たちも、同じような過ちをする可能性があります。義務感で献金をしても、神との交わりの代わりにはなりません。「神さま、あなたはこんなに良いことをしてくださいました。感謝の気持ちをもってささげます」との心が不可欠なのです。
三、心を治める
カインがいかにして神のお気持ちを知ったかを聖書は書いていません。でも、神が目に留められなかったことを知って「激しく怒り、顔を伏せた」とは記されています。弟のアベルは喜んでいるのを見て、さらに彼の怒りは大きくなりました。それを知った神は、「戸口で罪が待ち伏せている」と警告なさいま
した。でも怒りを治めることができなかった彼は、弟を殺してしまったのです。
「自分の霊を治める者は、町を攻め取る者にまさる」(箴言16:32)と聖書は言います。心を治めるとは、神との関わりを深くすることです。感情で怒っても、人にその感情を向けるのではなく、神に申し上げるのです。自然界を治めることができる現代人でも、心を治めることはできません。だからこそ、静まって神との交わりの時をもつことが必要です。特に忙しい時にこそ。
ささげ物は感謝の表れです。今、私たちが健康で生活し、働く場があり、御馳走でなくても生きていけるだけの衣食住があるなら、何と幸いでしょうか。このことに気づき、「私たちのからだを聖なる生きたささげ物として献げよう」ではありませんか(ローマ12:1)。