「わたしは道」 ヨハネ14:1-7
イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(6節)
十字架刑の前夜、主イエスは弟子たちと共に最後の晩餐を食されました。そこで、ユダの裏切りもペテロの失敗も予見しておられた主が、十字架への道を歩もうとしていることを弟子たちに伝えられたとき、彼らが不安になったのは当然です。でもこの場で主は、ご自分が神から来て神のもとへ行かれることを宣言されたのです。
一、道である主イエス
主は、「わたしの父の家には住む所がたくさんある」と言われました。父なる神の家とは、地上とは違った霊的な場所です。父なる神と親しく交わることができる所です。主が十字架によって罪びとの贖いをなされるゆえに、どんな人もみな神と交わることができます。主は、信じる者が全員、父なる神のもとに行くことができるよう、十字架への道を踏み出そうとなさっていました。
私たちは、地図を見ても正しく目的地に着くことができない場合があります。しかし、その場所を知っている人が一緒に歩んでくれるなら、必ずその所に着くことができます。主イエスは「道を教えてあげよう」とは言われないで、「わたしが道だ」と言われました。問題は、主のことばを信頼して、一緒に行くかどうかです。この信頼がなければ、目的地に着くことはできません。
二、真理である主イエス
ギリシア文化の最盛期だったこの当時、理性の働きによって真理を追及しようとする人々が多数いました。しかし、理性でもって全てを理解することはできません。トマスが「どうしたら、その道を知ることができるでしょうか」と言ったのは、まさにそのことを示しています。理性の働きは、人間存在の一部分でしかないのです。
主が弟子たちに伝えようとされたのは、人格的真理と言えるでしょう。神を信頼し、人を信頼するときに生まれる暖かさや平安などの感情は、理性の働きのみで得られるものではありません。正しいことを理解するだけでなく実行するためには、意志が不可欠です。理性・感情・意志のすべてを含む「人間」についての真理を、主イエスは弟子たちに示そうとされました。
三、いのちである主イエス
主イエスに信頼し、主に従って歩むなら、私たちのいのちはさらに豊かになります。主ご自身が、肉体のいのちだけでなく、永遠の、つまり目に見えないいのちを与えてくださるからです。主が自分の人生のすべてを支配しておられるとわかるとき、神の国はこの地上においても実現します。目に見える場所としてではなく、私たちの心に主がいて下さるからです。主イエスを知ることは、父なる神を知ることにほかなりません。
主イエスは最後の晩餐の後に捕らえられ、裁判を受けられ、十字架で肉体のいのちを失われます。しかしそれは奪われたのではなく、「自分からいのちを捨てる」ことでした(10:18)。それによって永遠のいのちが明らかになりました。肉体に限定されるのではなく、弟子たちとともに「世の終わりまでともにおられる」といういのちです。それは、聖霊によって私たちにも与えられます。
私たちはどういう道を歩めば良いのでしょうか。主イエスに祈りつつ、導かれる道です。「今日歩むべき道を示してください」と求めつつ聖書を読むなら、必ずそれは示されます。「悲しみ尽きざる憂き世にありても、日々主と歩めば御国の心地す」(聖歌467)と歌うことのできる、愛・喜び・平安に満ちている日々となるのです。