2023.03.12 メッセージ内容

「わたしはよみがえり」 ヨハネ11:25-40

わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。(25節)

「わたしは~です」という表現は、主イエスがどういうお方かを目に見える事象で示すものですが、今回は「よみがえり」という出来事を表明しています。主と仲が良かった家族の最も若い弟ラザロが死んでしまった時に、主がその姉たちに宣言された言葉です。この宣言によって、死に勝利するものは何かがわかります。

一、死に勝利する希望

マルタ・マリア・ラザロの家は、エルサレムに近い村ベタニアにありました。ラザロが重病にかかっていることは、そこから30kmほど離れた所におられた主に知らされたのですが、主はあえてベタニアにすぐに行こうとはされませんでした。それは、姉たちに真の希望とは何かを教えるためだったと思われます。姉たちは今か今かと主の到着を待ち焦がれていたに違いありません。

主がベタニアに着かれたとき、ラザロは墓に納められた後、4日も過ぎていました。悲しみに打ちひしがれていたマルタは、主に恨みごとを言うだけでした。「あなたの兄弟はよみがえります」と言われても、それはずっと先の「終わりの日」の出来事と思っていたのです。彼女の生きている間に実現することとは思いもしませんでした。それでは真の希望とは言えません。

二、死に勝利する愛

気丈夫に振る舞うマルタと比べて、マリアは泣き虫でした。彼女や、その他の人々の涙をご覧になられた主は、「霊に憤りを覚えられた」のです。それは、人間の最後の敵に対する怒りでした。主は、ラザロとその家族を愛されていたからこそ涙を流されたのです(35節)。これは聖書の中で、最も短い節と言われています。

主イエスは、罪によってこの世界に死が入ったことをご存じでした。肉体の死ですべてが終わると考える人間の悲惨さをご存じの神は、その悲しみを取り除くために、御子イエスをこの地上に遣わされたのです。死の問題を解決するために、愛する御子を十字架に架けられたのです。神はそれほどまでにこの世を、私たち一人ひとりを愛されていることを決して忘れてはなりません。

三、死に勝利する信仰

主は「その石を取りのけなさい」と言われたことは重要です。死んで4日も経過した人の納められている墓の入口の石を取りのけることは、主が何かをなさるという信仰がないなら、とてもできることではないでしょう。さらに主は、「父よ、わたしの願いを聞いてくださったことを感謝します」と祈られました。それは、父が主イエスを遣わされたことを人々が信じるためでした。神でなければ、人をよみがえらせることはできません。

現代でも、主の復活を空想話と思っている人々がいます。主の復活はもとより、ラザロのよみがえりも、歴史上の事実だと受け取らないのです。神という全能の存在を認められないからです。主が人間ならラザロをよみがえらせることはできなかったはずです。目に見えることしか信頼しないなら、死はすべての終わりですが、主への信頼があるなら、死に打ち勝つことができます。

ラザロのよみがえりは、主イエスの復活の伏線でした。ラザロがよみがえったなら、主の復活は現実のこととして認められます。多くの人々が死を恐れている現状の中でも、聖書の示す希望と愛と信仰を理解している人々は、死に打ち勝つことができます。あなたは今、死を恐れていますか。それとも恐れていませんか。

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