「インマヌエルとは」 マタイ1:18-25
そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。(23節)
イエス・キリストの誕生は、奇跡中の奇跡でした。神が人となるなど、現代人にはもちろんのこと、唯一の絶対神を信じるユダヤ人には、ありえないことだからです。しかし、神がそうなさったのには、大きく3つの理由があることが、典型的なユダヤ人であるマタイの記録からわかります。
一、人と等しくなるため
マリアが聖霊によって身重になったことは、婚約者ヨセフにとっても信じられないことであり、心痛むことでした。彼はマリアを愛しているがゆえに、婚約を解消しようとしました。そのままでは彼女は不貞を働いたと判断され、石打の刑に処せられるからです。そのとき御使いが夢に現れて、処女懐胎の事実を伝えたのです。しかし、当時だけでなく現代でも、そんなことを素直に信じる人は決して多くありません。
なぜ神はそんなことをなされたのか。それは、預言者や御使いの言葉では、神の偉大な愛を十分に伝えることができなかったからです。神ご自身が人と同じ姿になって、人の言葉を用いて、神の愛を示すことが必要でした。さらには、その行動を通して、神の偉大さと憐れみを示す必要がありました。イエスという現実の人格によって、神の本質を伝えようとされたのです。
二、人を罪から救うため
御使いはさらに、その子をイエスと名づけるように命じました。ギリシア語ではイエスと発音するのですが、もともとはヘブル語のイェホシュアという名前で、「主は救い」という意味です。イザヤの時代も、主イエスの時代も、選民イスラエルの生き方は罪にまみれたものでした。しかしこの方は、そんな罪を赦すために、自分が罪深い人間と同じ者となり、神の裁きを受けられたのです。
ヨセフもマリアも、御使いが言ったことの真意を理解することはできなかったことでしょう。しかし、この世界に罪がある限り、本当の平和も喜びも生まれてこないことは理解していました。現代の私たちもそうです。他人だけではなく、自分の心の内にも罪があることは、誰も否定できません。であるなら、その罪の身代わりとなって、人に新しい命を与える方が不可欠なのです。
三、人と共に生きるため
自分が他人に対して行った罪の行動を反省し、悔い改める人は世界中におられることでしょう。しかし、その後、何度も同じ罪を犯してしまうというジレンマに苦しむ場合が多いのです。どうしたら良いのでしょうか。その答えがインマヌエルという言葉に示されています。罪を赦すだけでなく、その後に常に人とともに生きてくださる方がおられなくては、人の本質は変わりません。
世界には無数の宗教があり、多くの教祖がいるでしょう。しかし、人と全く等しくなり、人の罪のために犠牲になって死んだ神などどこにもいません。さらに、その神が、私たち罪びとといつも共に歩まれることを主張する宗教など、ほかにあるでしょうか。神が人となられたことを、これほど明確に宣言するのは、新約聖書だけなのです。この21世紀に生きる私たちと、主イエスはいつも共に歩んでくださっているのです。
イザヤの預言は、その700年後に、文字通り実現しました。そして、それから2000年間、この奇跡を信じた多くの人々が、神と人を愛して生きてきました。毎年のクリスマスは、この事実を再認識し、その恵みを喜ぶ時なのです。