2022.10.30 メッセージ内容

「聖くなるために」 第二列王5:8-14

ナアマンは下って行き、神の人が言ったとおりに、ヨルダン川に7回身を浸した。(14節)

預言者エリヤの後継者として立てられたのがエリシャでした。彼もエリヤと同じく多くの奇跡を行いましたが、最も有名なのが本日の箇所に記されている出来事です。ツァラアトという病にかかっていたナアマン将軍が癒やされたのです。ここから、人が聖くなるための原則を学べます。

一、求める

イスラエルの北にあったアラムの国の将軍だったナアマンは勇敢な人でした。彼は立派な軍服を着ていましたが、その下にはひどい腫物が隠れていました。彼が密かに悩んでいることを知ったイスラエル人の娘は、エリシャならその病を治してくれると伝えたのです。そこで将軍は王に求めて、イスラエルに行く許可をもらいました。もしここで将軍がこの娘の言葉を信じず求めなかったなら、彼の病気は治ることがなかったでしょう。

私たちも、自分の心の中に罪を隠し持っている場合があります。それがある限り、心に平安は来ません。しかし、すべての罪が「聖められる」という聖書の約束があります。「御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます」(Ⅰヨハネ1:7)。その約束を信じて、それが自分の身に実現することを祈り求めることが、聖くなるための出発点です。

二、聞く

将軍は遠い距離をはるばるとエリシャのもとにやって来ました。ところがエリシャは姿も見せず、「ヨルダン川で7回、身を洗いなさい」と使者を遣わして言うだけです。将軍は激怒します。もっと丁寧な取り扱いを期待していたからでしょう。しかし、しもべたちの助言を聞き入れて、将軍は留まりました。単純なことを聞き入れることは、かえって難しい場合があるものです。

激しい戦いを勝ち抜いてきた将軍にはプライドがありました。自分の国にある川のほうがまさっているということも本当でしょう。しかしこのようなプライドが、神の言葉を聞くことを妨げていることが多いのです。自分の力で何でもできるという自信によっては、神の前に聖く生きることはできません。かえって、自分の汚れた姿をそのまま認めることのほうが大切です。

三、従う

ナアマンは、怒りをおさめて、エリシャのことばに従い、ヨルダン川へ行って身を洗いました。6回目までは何も起こらなかったかもしれません。しかし7回目に奇跡が起こりました。自分の心の汚れを知り、単純にみ言葉に従っていく毎日の積み重ねが人を変えていくのです。み言葉を信頼するなら、従うこともできます。御子イエスの血が私たちを聖めるという信仰は、毎日毎日、新たに持ち続けねばなりません。

「ヨルダン川に7回身を浸した」という表現に注意しましょう。主イエスも洗礼を受けられた時、ヨルダン川に身を浸されました。この水によるバプテスマは、聖霊によるバプテスマを象徴しています。水に浸され続けることは現実には無理なのですが、聖霊の中に浸されることは可能です。聖霊との親しい交わりこそ、私たちが聖くなるための秘訣であることを知って下さい。

洗礼を受けた時、過去の罪は全く赦され、神の子としての人生が始まりました。しかしそれ以降にも多くの誘惑があり、罪を犯したこともあるでしょう。ならば、常に「御子イエスの血」に寄り頼むしかありません。この信仰によって、主イエスとの交わりを深めていきましょう。

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