「エリヤの信仰」 第一列王17:17-24
エリヤは言った。「ご覧なさい。あなたの息子は生きています。」(23節)
紀元前10世紀に南北に分裂して後、北王国には悪王が続きました。その一人であるアハブ王の時代に登場したのが預言者エリヤです。彼は悪王に、神はこの国を裁いて旱魃(かんばつ)をもたらすと宣言しました。でもその結果、彼は命を狙われることとなり、町から逃げ出すことになります。
一、苦難を受け入れる
彼はエリコの近くにあったケリテ川のほとりに身を隠します。そこで彼を養ったのは烏でした。その後、120kmほど離れた地中海沿岸の町、ツァレファテに逃げますが、そこで一人息子と暮らすやもめと会います。極貧の中であっても、彼女はエリヤをもてなしてくれました。そんな優しいやもめに悲劇がおきます。息子が急病で死んでしまったのです。神を信じているのに、このような苦難があるのはなぜでしょうか。
この地上で生きる限り、人はみな、苦難を経験します。悪い支配者のもとで暮らすなら、その苦しみが拡大することは、現在の世界情勢を見ればすぐにわかるでしょう。そればかりか、愛する一人息子が死んでしまったのです。彼女がエリヤを非難したのも無理はありません。それでも、エリヤは、神に従ったゆえにこのような苦難を受けることになった事実を受け入れました。
二、苦難を共にする
やもめから息子を受け取ったエリヤは、彼を自分の寝床に寝かせ、「なぜ、この息子を死なせるのですか」と祈ります。彼も母親と同じく、主の意図を理解することはできませんでした。答えはありませんでした。エリヤは、その子の上に、三度も自分の身を伏せて、さらに祈ります。「この子のいのちを戻してください」と。息子の父親のような気持ちだったに違いありません。
エリヤは、やもめの苦難を自分の苦難と同じように思ったのです。彼女と苦難を共にしたのです。苦難にあっている人と全く同じようになることはできません。しかし、苦難を共にすることはできます。「悲しむ者とともに悲しむ」のです。預言者エリヤは厳しいさばきを宣告するだけでなく、苦難を共に経験する使命をもっていました。主イエスはまさにそのように生きたお方でした。
三、神のみわざを見る
「主はエリヤの願いを聞かれた」と聖書は明確に記しています。この子は生き返ったのです。それは神のみわざでした。聖書にはそのような奇跡が時々記されていますが、大半の人は死んでしまったままです。でも大切なのは、たとい死んだ者であっても、神の前には「生きた者」として立つという約束です。イエス・キリストの復活によって、この約束は現実のものとなりました。そして、今もこの信仰によって生きる人は多数います。
人はだれも、肉体の死を迎えます。しかし、それで終わりだと考えてはなりません。聖書は、その後、だれもが神の前に立つと約束しています。キリストは、「わたしを信じる者は死んでも生きる」と言われました(ヨハネ11:25)。復活された主イエスに信頼する者は、この希望を持つことができるのです。そういう人は、死を恐れないばかりか、死後の再会を楽しみに待つ者となります。
毎年、「記念礼拝」をもっているのは、この希望を確認するためです。「だれもが死ぬのだから、死の現実を受け入れよ」と諭す人々もいます。本当に死で終わりならそれで良いでしょうが、そう断定することはできません。死後に希望を持つことができるなら、何と幸いでしょうか。