「知られていない神」 使徒17:22-31
確かに、神は私たち一人ひとりから遠く離れてはおられません。(27節)
ピリピで迫害を受けたパウロとシラスは、ルカをその地に残して、福音を伝える旅を続けました。どこでも反対がありましたが、信じる人も起こされました。そして、ついに当時のギリシア文化の中心地であったアテネに着いたのです。そして、市民たちが自由に論議していたアレオパゴスという場所で、真の神について説明しました。
一、知らずに拝んでいる神である
ギリシア神話には多くの神々が登場します。そのような神々を祭る多くの宗教施設がアテネにありました。しかし、「知られていない神に」と刻まれた祭壇があったので、このことから話を始めます。「無知の知」を強調したソクラテスの影響もあったからかも知れません。ギリシア人が「知らずに拝んでいる」方がおられることを、パウロは大胆に宣教したのです。
日本にも多くの神仏があります。しかし、ほとんどの人は何を拝んでいるか知っていません。拝んでいると何かご利益があると思っているぐらいでしょう。人間が造った所に安置されているだけで、自分で動くことのできない神仏は真の神なのでしょうか。そのような「が」の神ではなく、天地とその中にあるすべてのものを創造された「を」の神こそ真の神なのです。
二、人と繋がりをもたれる神である
真の神は、人間を創造した後に、ほったらかしにしている方ではありません。世界各地に住むようになった人々に、自然を通して多くの恵みを与えておられる「父なる神」なのです。ギリシアの詩人もそのことを認めていました。聖書は、私たち人間は「神の似姿」に造られたと明確に記しています。神は、人間と繋がりをもつことを心から願っておられるからです。
しかし残念ながら、多くの人間は「父なる神」を認めようとせず、まさに放蕩息子のように、父のもとから離れていきました。そして、手探りで神を見出そうとしたのです。多くの宗教や哲学がそれを試みたのですが、結果は、金銀石などで造った偶像、また知識を神の代わりにしただけでした。人間の能力の限界を認めず、富や権力や繁栄を神のように崇めることも同じ誤りです。
三、悔い改めを求める神である
イエス・キリストが誕生される前は、そのような「無知の時代」であり、神はそれを見過ごしにしておられました。福音を知ることがなければ、真の神を理解できないからです。しかし、神が人となってこの地上においでになり、すべての人に対する愛をお示しになった「今」は、人間の能力で神を知ることができると考える傲慢さを悔い改めることを望んでおられます。
神を神として認めず、結果として苦難を招いている人間に、神は今も語られています。どんな罪深い人も苦しむ人も、神の愛に立ち戻る事ができると。そのために、自らが十字架にかかり、犠牲となられ、それを信じるだけで神の子とされる特権を与えられました。さらに死から復活され、死に対する恐怖から人間を救い出されたのです。この方こそ、真の神を示されたお方です。
この日本にも、真の神を知らず、自分で作った神々を拝んでいる人がいます。自分を神のように思っている人もいます。そのような方々に真の神を示すことは簡単ではありません。しかし、「私を愛しておられる神を知っています」と、喜びをもって証しするなら、その証しは人々の心に届くことを、歴史は明確に示しています。