2024.8.25メッセージ内容

「主イエスのもとに」 マタイ28:1-10

わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えます。(10節)

一、理解を超えたことが起こる

十字架刑による死から三日目、日曜日の朝早く、数人の女性が香料と油を用意してイエスの墓に向かっていました。墓の入口は大きな石でふさがれており、女の手では動かせないとわかっています。それでも彼らは行くのです。愛に押し出されて。

墓に着いたとき、石はすでに除かれていました。絶望的な状況の中で、それでも主を慕い、主に近づこうとする者たちのために、神が道を開いてくださったのです。 

彼らは“十字架につけられたイエス”(5)を捜していました。もう生きてはいない人です。墓とはそういう場所ですから。けれど死の現実しか見えていない人々に、御使いが神のみわざを告げます。“ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。”(6)

どんなに嘆いても死んだ者は戻らず、若さも健康も日々失われ、命あるものはすべて死に至ります。けれども、それで終わらないのです。

“よみがえられたのです”と復活が宣言されます。神にあっては、人は喪失と死の悲しみでは終わりません。そのための救いなのです。

私たちもまた悲しみと悔いに捕らわれて、もういない、もう無いという現実を見つめ続けたり、得られなかったものを思い続けて、うずくまってしまいそうになるかもしれません。

しかしやがて、人の理解を超える回復のみわざが行われることを、神のことばが宣言しています。“よみがえられたのです”と。

二、ガリラヤで主にお会いする

どうしようもない空しさと悔い、恐れの中で、弟子たちは閉じこもっていました。そこに「ガリラヤに行きなさい」と、よみがえりの主のことばが伝えられます。

ガリラヤは、彼らが主イエスと出会った場所です。「わたしについてきなさい」と呼んでくださった方に従い、舟と網から手を放し、すべてを神にゆだねて進み出した信仰の原点です。

いま直面している己の弱さ、罪深さは、その時には想像もしなかったことでした。けれども主は、まさにこのとき、「あなたはもう一度そこでわたしに会う」と言われるのです。

もう一度ただ主イエスを見上げて、十字架を見上げて、ただ信仰によって歩み出すためです。

今日もそして明日も、日々もう一度主にお会いし、そしてみことばに励まされ、聖霊によって強められて、一心に主イエスを見つめてながら希望に向かって進めるように、今日も祈りたいと思います。

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