「キリストとの距離」 マタイ14:22-33
すぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。(27節)
5千人の人々の空腹を満たされた後、キリストは弟子たちを向こう岸に向かわせ、群衆を解散させられました。主を王に担ぎあげようとする人たちを思いとどまらせるためです。生きるためにパンは必要ですが、パンだけで生きる生涯は主の御心ではありません。最も大切なのは、キリストとの距離です。
一、離れられたキリスト
働かなくてもパンにありつけるなら、人は怠惰になってしまいがちです。それを防ぐため、主はあえて弟子たちや群衆から離れられました。漁師だった弟子もいたので、彼らは何の不安も感じないで湖を渡っていきます。しかし、8章でも経験していたように、急に向かい風が強くなり、前進することができなくなったのです。以前は昼でしたがこの時は夜で、不安も倍増していました。
子どもは成長すると親から離れていきます。それが自立です。主イエスも、この時、あえて弟子たちから離れられました。といっても、いなくなられたわけではありません。現代もそうです。肉眼で主イエスを見ることができなくても、主はおられます。後に主は、弟子たちから離れて昇天されるのですが、その時に備えて、あえて弟子たちだけで船旅をさせられたのです。
二、近づかれたキリスト
ガリラヤ湖は東西が10km、南北が20kmほどの湖です。決して大きな湖ではありません。でも突風が吹くと、漁師たちでも命の危険を感じることがあったのです。同じような危機はすでに8章にも記されていますが、その時は、主は同じ舟に乗っておられました。でもこの時は、主は湖を歩いて弟子たちのところに近づかれたのです。彼らは主を幽霊と思い、恐れて叫びました。
主が弟子たちに語られたことばに注目してください。「わたしだ」という表現は、「わたしは存在する」という意味です。肉体をもたない霊ではなく、現実に存在するお方です。モーセに対して主は「わたしはある」という者だと言われました(出3:14)。この事実を弟子たちに教えるために、主はあえて弟子たちから離れ、そして悩み苦しむ時に近づいて来られたのです。主は、現在でも同じようになさいます。
三、内に来られたキリスト
ペテロは勇気をふり絞って、自分のほうから主のもとに向かいました。そして実際、何歩が近づく事ができたのですが、途中で怖くなり、沈みかけました。その時、主は「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われます。これは叱責ではなく、あわれみのことばです。信頼しきれないペテロに対して、そのありのままの姿を受け入れた上で、「すぐに手を伸ばし」て、助けられました。
主のもとに近づこうとする私たちの勇気は大切ですが、いつでも問題が解決するわけではありません。そんな時にこそ、主はあわれみの手を伸ばして助け出し、共に舟の内に連れて行って下さいます。その時、風はやみました。現在も同じです。主は近づかれるばかりではなく、一緒にいて下さるのです。主が私たちの心の内にいてくださるなら、何も恐れることはありません。
私たちとキリストとの距離はどれほどでしょうか。天と地の開きがあると思っているなら、それは大間違いです。主イエスの姿は目に見えませんが、主はご自分のほうから私たちに近づいてこられます。嵐の時にこそ力強く、「わたしだ。恐れることはない」と言われるのです。