2024.7.21メッセージ内容

「私にできること」 ヨハネ6:1-15

ここに、大麦のパン5つと、魚2匹を持っている少年がいます。(9節)

主イエスは、嵐を静め、病を癒やし、悪霊を追い出すという様々な奇跡をなされましたが、5千人もの人々に食べ物を与えたという奇跡は、特に注目に値するでしょう。今も世界にある飢餓の問題と関係があるからです。このような大問題に私たちは何ができるのでしょうか。登場する一人の少年が大切なことを教えてくれます。

一、大勢の人々

主イエスのことばと行いに感銘を受けた人々は主の後を追いかけて、ガリラヤ湖のほとりまでついてきました。主は、彼らが空腹である事をご存じの上で、あえて弟子のピリポに、「どこからパンを買ってきて、この人たちに食べさせようか」と尋ねられます。ピリポは、自分たちの財力ではこんな大勢の群衆の空腹を満たすことはできないことを十分に承知していました。

21世紀の今でも、食物が無くて飢えている人々が大勢います。私たちはその現実を知っていますが、どんなに努力しても、限界があることを認めざるを得ません。ある調査によると、現在でも1日に2万5千人の人々が飢餓で死んでいるそうです。戦争や気候変動などが一番の大きな理由ですが、なぜ神さまはあえてその様な酷い事をなさるのでしょうか。

二、大きなみわざ

そこに、5つのパンと2匹の魚を持っている少年がいました。多分、母親が作ってくれたお弁当でしょう。しかし彼はそのお弁当を自分で食べないで、弟子のアンデレのもとにもってきました。アンデレは「でも、こんな大勢の人々では、それが何になるでしょう」としか言えなかったのです。確かに、数的には全く無理なことでした。

しかし主は群衆を座らせられます。他の福音書によれば、50人程のグループに分けられたようです。そして感謝の祈りを捧げてから人々に分け与えられました。その時、奇跡が起こったのです。分けても分けても、パンは小さくなりません。群衆は驚いたでしょう。でも、その場にいた人たちはこれを経験したのです。自分が隠し持っていた弁当をそっと出した人がいるかもしれませんが、主が大きなみわざをなさった事は確実です。

三、大きな満足

女性と子どもを含めると2万人はいたと思われる群衆は、望むだけ食べました。魚も同様でした。主は余ったパン切れを無駄にすることがないように弟子たちに集めさせました。すると12のかごがいっぱいになったのです。人々はこのしるし(証拠としての奇跡)を見て、主が「世に来られるはずの預言者だ」と言いました。主のなされたことに対して大きな満足を得たのです。

これを経験した群衆は、主を王にしようとしたことが記されています。しかし主は、彼らを離れて、山に退かれました。なぜでしょうか。時間がたてばまたお腹はすいてきます。満腹を求めるだけでは解決にならないのです。主は、「わたしがいのちのパンです」と35節で言われました。肉体のいのちを保つパンではなく、永遠のいのちを与えられるキリストこそいのちの源です。

現代の日本においても、貧しい人々に食糧を届ける働きは不可欠です。しかし、マザーテレサは来日したときに語りました。「パンではなく、愛に飢えた多くの人がこの国にいます」と。5つのパンと2匹の魚ではなく、たとえ一言でも愛のことばを語り、小さな親切をする人が必要なのです。私たちにできることは何でしょうか。

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