「祈りという戦い」 創世記32:22-32
ヤコブは言った。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」(26節)
ヤコブは、ベテルで主なる神のことばを聴く機会をはじめて持ちました。その後、伯父ラバンの家で20年間必死に働きました。そして2人の妻と女奴隷、11人の子ども、多くの奴隷や家畜を連れて故郷へ帰ります。帰郷の知らせを聞いた兄エサウは、400人の家来を連れて迎えに来ました。恐れを感じたヤコブは、必死に祈るのです。
一、敗北を認めること
ヤボク川を渡る前夜、20年前のベテルの時と同じく、彼は一人になりました。そこに謎の人物が現れ、彼と格闘を始めたのです。エサウの手先と誤解したヤコブは必死に戦います。夜明けまで戦いが続いたのですが、この人物は最後にヤコブのももの関節を打ちました。ヤコブの敗北は明らかです。それでもヤコブは自分の敗北を認めず、この人物にしがみつき、離れませんでした。
ヤコブの性格がよくわかる出来事です。彼は兄エサウに対しても、伯父ラバンに対しても、チャレンジし続けてきました。そして「勝った」と思っていたことでしょう。ひと昔前の日本のビジネスマンと似ていて、自分の力で何でも解決できると考えてきたのですが、本当にそうでしょうか。ヤコブもビジネスマンも、「本当は敗北ではなかったのか」と振り返る冷静さが必要です。
二、勝利と認められること
必死に戦い続けたヤコブは、この相手は単なる人間ではないと気づきました。彼が求め続けてきた祝福を与える神的なお方だと悟った彼は、必死にすがりつきます。この方が、「あなたの名は何か」と尋ねたのは、ヤコブが兄のかかとをつかんで生まれた者、利己的な者であることに気づくためでした。そう認めた後、神的な人物は「あなたは神と戦って勝った」と言われたのです。
私たちは、実際に誰かと格闘することはないでしょう。しかし、「これには勝たねばならない」と思って必死に戦ってきたことはないでしょうか。「勝たせてください」「祝福してください」と祈り求めたことはないでしょうか。しかし、そんな自分に、人を押しのける利己的な思いが隠れているなら、それを認めることが必要です。そうすることが、「神に勝つ」ことなのですから。
三、恵みを受け入れること
ヤコブは、自分が敗北したのに「勝った」と言われたこと、また神の顔を見たのにまだ生きていることに驚きました。自分の益のみを追い求めてきたにもかかわらず、神は忍耐強く彼と共に歩んで祝福されてきたことを悟ったのです。幼児が父親と相撲をした時、親が負けることはよく見聞きします。神が彼と戦われたのは、神の恵みがどれほど深いかを気づかせるためでした。
何かして欲しい時、感謝する時、苦難の時、寂しい時、様々な時に祈るでしょう。しかし、ヤコブのように、自我と格闘する時も祈りが必要です。祈りが戦いのように思える時もあるのです。その時に、自分の弱さを正直に告白しましょう。弱いからこそ、主に寄り頼むことができるのですから。これこそ、パウロが告白した「弱い時にこそ、強い」という意味です(Ⅱコリント12:10)。
ベテルで神が共におられることを経験したヤコブでした。でも、その後も自分の能力で多くの財産を得たとうぬぼれていたヤコブは、それらはすべて神の恵みだったことに気づく必要がありました。それが、このペヌエル(神の御顔)での経験です。現在、神と顔と顔を合わせることは、主イエスとの親しい交わりによって実現します。