「見出された羊」 ルカ15:1-7
一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから。(6節)
この譬え話には、その後に続く銀貨や放蕩息子の話とつながる一連の目的があります。それは、神から離れていた者が見出されることがどれほど大きな喜びなのかを示すことです。律法学者たちは、神から離れていた罪人たちが神のもとに立ち返るとき、神はどれほど喜ばれるのかに気づいていなかったのです。
一、羊の愚かさ
羊は、渦巻き状の角、短い足、柔らかな爪、弱い目をもつ動物です。また一匹がある方向に進んでいくと群れは皆、その後をついていく習性があるそうです。主は、群れからいなくなった愚かな羊を取り上げ、その羊を見出そうと捜し歩く羊飼いの話をされました。人間を羊に、そしてご自分を羊飼いに譬え、神のもとから離れた者を捜しておられる神の姿を示されたのです。
賢い羊も中にはいるでしょう。律法学者は自分たちが立派な人間だと自負していたかもしれませんが、本当は愚かな者であることに気づく必要がありました。しかし、どんな愚かな羊であっても、神のものです。愚かさのゆえに離れて行ったものも、神は愛しておられます。自分が賢い羊だと思い高慢になり、愚かな羊を見下すような者であってはなりません。
二、羊飼いの犠牲
羊飼いは、99匹の羊を残して、いなくなった1匹を捜しに出かけました。99匹の中には、多少賢い羊がいたでしょう。その羊を信頼して群れをあずけ、愚かな羊に心を向けたのです。そして、山や谷を歩き回り、自分の身の危険をかえりみずに捜し歩きました。羊飼いは羊を守るために犠牲を払ったのです。ちょうど、主イエスが罪人たちのために十字架にかかられたように。
現代の教会もそのような気持ちをもって、神のもとから離れている人々を捜し求めることが必要です。多くの人々は、自分が神から離れていることさえ知りません。自分の力で何でもできると錯覚しています。その人たちに「神のもとに帰ろう」と言っても、理解してもらえないでしょう。多くの犠牲が必要でしょう。そのとき私たちは、主イエスの思いを幾分かでも経験するのです。
三、みんなの喜び
やっとのことで羊を見つけた羊飼いは、大喜びでその羊を肩に担ぎ、99匹のもとに帰ってきます。そして友だちや近所の人たちに「一緒に喜んでください」と言うのです。それと同様に、一人の罪人が主のもとに立ち返るなら、「悔い改める必要のない」人々のためよりも大きな喜びが天にあると聖書は記します。でも、「悔い改める必要のない」人は、どこにいるのでしょうか。
神の目から見るなら、だれもが悔い改めるべき者です。この律法学者もそうでした。しかし彼らは自分が神のもとを離れているとは考えもしなかったのです。自分は罪人ではない、律法を正しく行っている、と確信していました。だからこそ律法を守っていない人々と一緒に食事をしている主イエスを非難したのです。自分が見出されたことを知らない者の悲劇でした。
主イエスは良い羊飼いです。羊のことをいつも心にかけ、いなくなった1匹であっても決して無視されません。牧師もまたそうでありたいと願います。また、99匹の羊で成る教会も、1匹の羊が帰ってくるなら、大喜びで迎え入れるものとなりましょう。多くの人々が、自分は「迷える羊」であることに気づくよう祈りつつ。