「主の宮に住む幸い」 詩篇84:1-12
万軍の主よ。あなたの住まいはなんと慕わしいことでしょう。私のたましいは、主の大庭を恋い慕って、絶え入るばかりです。(1-2節)
この詩篇は、「コラ人」によって作られたものだと冒頭の表題に記されています。彼らは祭司ではなく、幕屋やエルサレム神殿(主の宮)で門衛や聖歌隊などの奉仕をしていた人々でした(Ⅰ歴代26章)。しかし、色々な事情でエルサレムから遠く離れた地に住まざるを得なくなった彼らにとって、神殿に行って主に仕え、主を賛美することは何よりも幸いなことだったのです。
一、願い求める幸い
長い期間、彼らは主の宮に行くことを願い求めていました。恋人に会うことを切望するような心です。すずめやつばめが、雛のいる巣に帰りたいと願い求める気持ちです。「主の宮に住むことができるなら、一日中神様を賛美できるのに」という願望を抱いていたのです。現代の私たちも、そのような思いで教会に行くことを慕い求めているでしょうか。そのように願い求める人は幸いです。
二、共に祈る幸い
作者は、主の宮に行きたいという一心で、シオン(エルサレムの別名)に向かう大路を進んでいます。その途上、彼らの心は燃えていました。「涙の谷」と思われる困難な状況にあっても、そこを「泉の湧く所」とすることができたのです。自分だけではありません。周囲の人々にもその祝福を分かち合って、「力から力へと進む」ことができました。主との交わりによって力を与えられた人は、共に祈ることによって他の人にもその力を分けあうことができます。今も教会で共に祈れることは、何と幸いなことでしょうか。
三、主が共におられる幸い
作者はついに、主の宮があるエルサレムに到着しました。宮の前にある「大庭」で、主を礼拝する日は、他のどんな所にいるよりも喜びにみちていました。そこにおられる主は、太陽の光のような明るさを与えてくださいます。主はご自身を求め、主と共に誠実に歩む者に良いものを拒まれることはありません。「私が愛して信頼する方は、私と共におられる」と確信できる人は、何と幸いなことでしょうか。
現在、主の宮は教会と言うことができるでしょう。しかし、主は教会だけにおられるわけではありません。一人静かに祈る時、そこは「主の宮」になります。教会で礼拝する時も、一人で祈る時も、臨在しておられる主に信頼する者は、本当に幸いです。