2024.4.14メッセージ内容

「赦しの大切さ」 マタイ18:15-35

私がおまえを憐れんでやったように、おまえも自分の仲間を憐れんでやるべきではないか。(33節)

主の祈りで、「我らに罪を犯す者を我らが赦す如く、我らの罪をも赦し給え」と祈っているのですが、それは実際にできているでしょうか。人を赦すことは簡単なことではありません。だからこそ主は、それができるように何度も祈ることを教えられたのです。ここで示されている3つの段階に注意してください。

一、罪を示す

罪を赦すためには、まず何が罪であるかを明確に知らねばなりません。何よりも、神を認めない生き方は罪であることを知らせねばなりません。これが出発点です。続いて、人間同士のいさかいも罪です。他人を傷つけたことに気づかない人でも、傷つけられたことは心に残っています。罪を知らせることは大切ですが、まず二人だけで愛の心をもって示すよう、聖書は命じます。

それが聞き入れられないなら、他の一人か二人に説明して一緒に話してもらいましょう。それでもだめなら教会に申し出ることが勧められています。つまり他の人の意見も聞いた上で、問題の解決を進めるのです。この間に、自分にも落ち度があることに気づくかもしれません。その時は、自分も謙遜になって赦しを求める必要があります。主の祈りが教えることはこのことです。

二、共に祈る

罪を指摘するのは人を裁くためではありません。神さま以外に誰が人を裁けるでしょうか。罪を自覚したなら、その赦しを求める祈りをしましょう。「2人か3人が主の名によって集うところ」とは祈りの場であることを忘れてはなりません。主イエスはそのところにおられます。そして、ご自分が十字架で死なれたのは、その罪を赦すためであることを思い出させて下さるのです。

私たちの多くは、未信者に囲まれて生活しています。多くのいざこざが起こっています。相手が悪い場合であっても、一緒に祈ることは難しいでしょう。でも、一人で祈ることはできます。主は、その人をも愛しておられるのですから、自分の罪を認めようとしない人のためにも祈りましょう。難しいことではありますが、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」とはそういう意味です。

三、主に倣う

ペテロには、どうしても赦せない人がいたのでしょう。しかし主が赦せと命じられたので何度か赦したのですが、それでも彼は変わりません。そこで主に「何回赦すべきしょうか」と尋ねたのです。主は譬え話をされました。一万タラント(6千万円ほど)の借金を赦された人が、百デナリ(百万円ほど)の借金を赦すことができないとするなら何が問題なのか、という鋭い問いでした。

神の目から見たら、私たちにはどれほど多くの罪があるでしょうか。それらが赦されたのにもかかわらず、他の人の罪を赦せないとするなら、それは自分の側に問題があります。主イエスは十字架の上で、自分を殺そうとする人々のために祈られたことを忘れてはなりません。自分の莫大な罪が赦されたことがわかればわかるほど、他の人を赦す心が強くなるのです。

私たちは、クリスチャンになった後でも、大なり小なり罪を犯しています。そのたびに主の十字架の前に出て悔い改め、「すべての罪からあなたがたをきよめる」との約束を信じて、新たに歩みだします。であるなら、私たちも赦しましょう。毎日毎日、周囲にいる人々に愛をもって接し、失敗を指摘したとしても、それを赦す者となりましょう。

目次