「永続するもの」 ヨハネ11:30-44
主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。(32節)
人間の肉体の命は永続することはありません。しかし聖書は、主イエスを信じるものには「永遠のいのち」があることを宣言しています。主イエスが永遠に生きておられる方だからです。主と共に生きる者には、今この時においても永遠のいのちがあります。いつまでも残る、信仰と希望と愛が備えられているのです(Ⅰコリント13:13)。
一、永遠のいのちに至る希望
主イエスは、ベタニア村にあるマルタ・マリア・ラザロの3姉弟の家をよく訪問されていました。でもラザロが急病になった時には、徒歩で1日ほどかかる所におられたのです。姉たちは使いを遣わし、すぐに来てほしいとお願いしました。しかし主は、あえてもう2日間、そこに留まられます。主がやっとベタニア村に来られた時には、ラザロは死んでいました。失望に沈んでいた姉たちに対して、主は「信じる者は死んでも生きる」という希望を与えられたのです(25節)。
現代のように救急車があっても、死ぬ人はなくなりません。もちろん医者や薬のゆえに、回復する人もいますが、その希望が叶わない場合も必ずあります。しかし主イエスは、失望に終わらない希望を私たちに与えてくださいました。肉体の死で終わる世界ではなく、永続するいのちによって生きる世界を約束くださったのです。
二、永遠のいのちを示す愛
主イエスは、この3人を愛しておられました。だから姉たちが泣いているのを見て、主も「涙を流され」たのです。周囲にいた人々も、「どんなにラザロを愛しておられたことか」と言わざるをえませんでした。しかし主は、この3人だけでなく、この世のすべての人々を愛しておられます。だからこそ、人間が死によって涙を流すことのないように、死の原因である罪を解決されたのです。
もし神が人を愛しておられないなら、御子イエスはこの地上に誕生なさることはなかったでしょう。預言者もなく、聖書も存在しなかったでしょう。しかし人を愛しておられるゆえに、まずイスラエルの人々にその愛を伝え、その後、主イエスを通して、全世界の人々への愛を啓示されました。神の愛が分かる時、私たちは死を克服する永遠のいのちの確信を持つことができます。
三、永遠のいのちを信じる信仰
ある人々は、「見えない人の目を開けたこの方も、ラザロが死なないようにすることができなかったのか」と言いました。医療では、病気を癒やすことはできても、死を克服することはできません。死という現実を乗り越えることができるのは、永遠に生きておられる方を信頼する信仰によってのみ可能です。でも永遠に生きておられる神を信じられない人は多数います。
マルタ自身も、墓石を取りのけようとされた主に文句を言っています。クリスチャンでも、復活を信じられない人がいるのも事実です。この世界の常識ではそうでしょう。しかし、永遠に生きておられる神を信じる者は、地上のいのちに限定されない永遠のいのちを思い描くことができます。この信仰を抱く人は、たとえ主イエスを肉眼で見ることがなくても、死を恐れません。
ラザロは、その1~2週間後におこった主イエスの復活の前触れでした。ラザロは人間ですからその何十年か後に肉体は死んだことでしょう。しかし、主の復活は全く違います。復活された主は、2千年間、肉眼で見えなくても、私たち一人ひとりと共に生きておられるのです。